岡田斗司夫氏(以下、敬称を略して「岡田さん」と呼ばせて頂きます)に、Twitterによる「公開読書」(12月9日午後10時~)で、「『嫌消費』世代の研究」をとりあげて頂きました。
公開時にも、突然お邪魔してお礼を申し上げましたが、ここで改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。ところで、今頃で、誠に申し訳ありませんが、「嫌消費」は「ケンショウヒ」と読みます。
もし、「バカ野郎、難しい本を書きやがって、こんなもん読んでられっかよ。言いたいことを手短にまとめろ!」と読者に叱られたら、
「モノを買ったり欲しがったりすることに嫌悪感を持つ世代の話。昭和世代が「欲望」で動いていたとすれば、平成生まれたちはまさに「劣等感」で動いているのかもね。その研究書。」(岡田さん)
を引用させて頂くだろう。これは僕にはできない。さすがに、うまいまとめです。
腹減った、うまいもの食いたい、いい服が着たい、大きな家が欲しい、外車が欲しいなどは欲望です。欲望が昂じると世の中まで変えたくなります。こうした欲望に突き動かされてきたのが、団塊の世代、断層の世代、新人類なのだと思います。
しかし、最近の新しい世代は違うようです。彼らを駆り立てているのは、他者意識です。他者と比較して、自分の容姿や能力をより低く評価する劣等感です。
劣等感は誰しもが持っています。フロイトと並ぶ個人心理学で知られるアドラーは潜在意識下の劣等感が人々のすべての行動を突き動かしているとさえ考えています。
「クルマ買うなんてバカじゃないの?」の発言には、自分と他者を比較し、他者を愚かだと蔑む感情が隠されています。「自分はバカじゃない」という優越感があります。そして、その優越感の裏返しが劣等感でしょう。
自分の欲望は二の次で、他者との比較こそが大事なのでしょう。彼らの消費はいつも他者を意識しないといけないから、当然の事ですが、面倒で、手間で、ウザいと思ってしまいます。この観点から公開読書で自著を読んで頂きました。
この本の面白さは、岡田さんがうまくピックアップされていますので、是非、Twitterでのつぶやきをご覧になって頂ければと思います。
ここでは、お礼の補足として、面白くないところを、僕が面白く書けなかった責任として少し紹介させて頂きます。実は、もっとも苦労したところでもあります。 この本は、5章で構成されています。
- 1章 嫌消費の時代
- 2章 嫌消費世代の登場とプロフィール
- 3章 嫌消費の要因は、世代特性か、低収入か
- 4章 世代論はどこまで有効か
- 5章 嫌消費世代のマインドと市場戦略
- 終章 未来の消費社会
著者である僕の「血と汗と涙」の結晶は、3章と4章です。この章は読んでいて難しいと思います。若干の統計的知識が必要です。僕が読み方を解説させて頂くと、
- 「嫌消費なんてあるの?」
- 「本当かよ?」
- 「モノが売れないのは低収入だからじゃないの?」
- 「下流なんじゃないの?」
と疑問を持ちながら読んでいただくといいと思います。
若者がモノを買わないと言う実感は上の世代にはあります。しかし、データで検証してみろ、と言われると結構難しいのです。
数字を使って犯人捜しをやっています。たくさんの数表がありますので、これらを読んで頂ければ納得して頂けるはずです。
しかし、統計的な仮説検定やモデル分析もありますので、専門家ではない、一般の読者には申し訳なく思います。裁判で言うと、陪審員である読者に、少々、専門的な証拠を提示して、立証と反証をしているところです。このまじめな作業をやっているのが3章です。要らないと言われてしまえばそれまでですが、少々、こだわっています。
4章は、世代の理論です。結構、知的欲求の高い読者にはこの章を評価して頂いています。たぶん、ディルタイ、マンハイム、オルテガの並びにびっくりされる方も多いでしょう。解釈学、知識社会学、大衆批判の三巨匠が実は、世代論で結びついていたという話です。
この章で、読んで頂きたい「角度」は、
「世代論って誰でも言ってるじゃん。うさんくさくないの?信じていいの?」
です。
僕が言いたかったことは、
「世代論は、立派な教養であり、歴史観なんですよ」
という事です。
歴史観というのは、社会や経済がどのように変化していくかのトータルな見方のことです。こんなのがあると便利ですよね。予測される未来に向けてアクションを起こせばいい訳です。
1989年の「ベルリンの壁」が崩壊するまでは、恐らく、世界の人口の過半数は、資本主義はいずれ社会主義社会になると思っていたんじゃないでしょうか。
資本主義社会における貧乏人(下層=労働者)と金持ち(支配層=資本家)の階層=階級対立が激しくなって、貧乏人が政治的に天下をとる社会主義の時代がやってくる。従って当時では、時代を先取りするとは、社会主義的なものを取り入れればよかった訳です。
もうなくなった、終身雇用や年功序列賃金、従業員主権などの制度は日本の優れた経営者による社会主義の先取りでしょう。政権交代後は、ひょっとするとこうした歴史観が再び蘇っているのかもしれません。
世代論の先駆者たちは、歴史が変化していく動因は経済的な階級対立ではなく、自然生物学的な世代交代だと考えた訳です。従って、世代論の始まりは、生の人間が生きていくに不可欠な人生観や歴史観の構築にあります。
この辺りをさわり程度に触れています。人間は、確かに、収入や職業で規定される階級的な存在であるけれども、親や学校などの社会制度などに規定された歴史的な世代存在である、と言うことです。
誰かを理解し、その人の行動を予測しようとした際に、その人の収入や職業から階級的な存在として理解するか、それとも、その人の親や生活史から世代論的に解釈するかの違いです。
世代論は、自分が、時代によって育まれた存在であり、歴史に制約されたものであることを認めることなんですよね。
もうひとつは、それでも「世代論はうさんくさくないの?」という事への返事です。昔からとても偉いドイツの哲学者たちが言ってることなんですよ、では納得できない方への案内もしています。
世代論が、うさんくさく思われるのは、若者論のように主観的なキメ付けのもの言いになっているからでしょう。占いや血液型性格診断と変わらないように思われます。
これらの言説は、ウソか、本当かの判断ができない。反証できないということです。
反証するには、特に、生年区分が問題になります。年代区分がはっきりしていれば、統計的な検証がすぐできます。
しかし実際には、論者によっては区分を示していないものもありますし、論者ごとに世代の生年区分も違います。そして、その区分の根拠が示されていません。
この本では、エリクソンの心理学説を使った生年区分を用いました。区分の理論的心理的根拠をはっきりさせた訳です。
そして、主に明治の徳富蘇峰から始まる日本の世代論解釈の伝統を踏まえて世代を整理し、命名しました。
理論については、江藤淳の「成熟と喪失」、戦後の世代解釈については、橋川文三の文学的世代論である「歴史と世代」の影響を多分に受けています。
これで、うさんくさい世代論を、陪審員である読者のみなさんにすべての証拠を提示した訳です。あとは理論の適応の是非とデータや事実の解釈の問題になります。
この辺りがいかにも理屈っぽくまじめな感じがするんでしょうね。理論なし、反証できないデータや事実なし、の世代論って、面白いだけで、自分が書くには我慢ならない感じですかね。
4章は、とっつき難いと思いますが、「ここはどこ?僕って、誰?」(エヴァンゲリオン)の世界、ある意味でサルトル、ハイデッガー、そして、フッサールに関心が繋がり、反歴史主義の構造主義の巨匠であるレヴィ・ストロース、そして、フェルナンド・ブローデルの歴史研究などの面白い思想家へと広がっていきます。
こうした思想家は、明日の飯を食べるには何の役にも立ちませんが、人生観を豊かにし、大きくしてくれます。劣等感などで悩む事などは小さな事だと教えてくれます。
さて、せっかく岡田さんが、やさしく、面白く紹介して下さったのに、また、難しくしてしまったようです。
岡田さんには拙著を紹介して頂きありがとうございました。最後に、重ねてお礼を申し上げます。また、この公開読書をきっかけに本書を購入して下さった読者の方々にこの場を借りてお礼を申し上げます。誠にありがとうございました。
2009.11 東洋経済新報社 発行
定価 1,500円+税
独自の大規模調査をもとに、若者の「買わない心理」の深層に迫る。
「クルマ買うなんてバカじゃないの?」
若者の消費が変化している。若者はなぜ、物を買わなくなっているのか。そこには巷間ささやかれている「低収入」「格差」「非正規雇用の増加」以上に深刻な、彼ら独特の心理=「劣等感」が強く影響している。本書では「収入が十分あっても消費しない」傾向を「嫌消費」と名付け、大規模な統計調査とインタビュー調査をもとに、「嫌消費」を担う世代=20代後半の「買わない心理」の原因と深層に鋭く迫る。
「世代」という観点から市場を捉え、世代論の手法で将来を遠望した一冊。