泣くことについて性差を見ていく前に、まず、涙が出る神経生理的なメカニズムを知っておく必要がある。
ひとつの有力な研究は「進化論」で知られるダーウィンの説である。それは、今からおよそ120年前、1889年に書かれた『人及び動物の表情について』(復刻版、1991年、岩波書店)での見解だが、この本の中でダーウィンは、人間と動物の表情が類似していることから進化論を例証しようと試みている。
ダーウィンが分析するには、子供は、動物と同じように食べ物が欲しい時や苦しい時には、苦しみを緩和させ、親への助けを求めるために大声を出す。この泣き喚きは目の血管に充血をもたらすが、充血を防ぐために、眼の周囲の筋肉を収縮させることになる。そして、この筋肉の収縮によって、眼の表面の痙攣的圧迫と眼の内部の血管の拡張が反射作用を起こし、涙腺から涙が分泌される、とのことだ。大人が悲しいときに泣くのは、つらくて目を細める際に筋圧が涙腺を刺激するからであり、大笑いをしたりくしゃみをしたりする際に出る涙と同じであると結論づけている。この、ダーウィンの客観主義的な観察力の凄さには脱帽せざるを得ない。
さらにダーウィンは、泣くことを、欲求や欲望の「非言語的な表現」と見なしている。乳児や幼児が成長するにつれ次第に泣かなくなるのは、欲求や欲望を泣くこと以外の手段、つまり、言葉を使って表現できるようになるからである。
他方で、ダーウィンは、感情によって涙する人間固有の意味をあまり認めていない。感情によって泣くのは進化の「なごり」であり、進化的な意味はないと捉えているようである。しかし現代では、泣くことを引き出す感情は人間を大きく進化させてきたと認識されている。
なお、泣くことによって流れる涙には、その成分の違いから三つの種類があることが知られている。眼を乾燥から防ぎ、生理的な保護機能を果たす7マイクロリットルの基礎分泌の涙、ゴミなどが入った際の反射性の涙、そして、感情の涙(エモーショナル・ティア)である。
現代の進化論的な観点からは、人間が涙を流すのは、ヒトの進化の過程に起源があるとされている。およそ38億年前に生命が海から誕生した際、海のなかで外敵から身を守るために生物はさまざまな感覚器を持つようになった。そのひとつが光を利用した感覚器である眼である。その後、約4億4,000年前から、海の生物は上陸を始めたが、眼は海のなかで生まれたので海水に適応しており、上陸したことによって眼を乾燥させないようにすることが陸の環境への適応課題となった。そして、その適応するために生まれた機能が涙であると推測されている。
涙の成分は血液とほぼ同じである。目の乾燥を防いだり、ゴミや煙、タマネギの成分が目に入ったりする時に出る涙は、このような進化的起源を持っていると考えられている。しかし、類人猿と分かれ、現代人の祖先が誕生したのは約200万年前である。この分岐点で、人間は涙と感情を結びつける機能を獲得し、それが環境適応に成功したとみることができる。人間は、海から上陸したことを起源とする涙を、より環境に適応的なものに進化させたのである。それは、恐らく、集団行動に結びつく社会性の獲得である。
J.ルドゥーによれば、情動の神経経路にはふたつの経路がある。第1は、何らかの情動刺激を末梢から扁桃体が直接受けとり、情動的反応を起こすもので、低次経路と呼ばれている。これは刺激に対して素早い対応をとるが、しばしば間違いを起こす。第2は、刺激が大脳皮質を介して間接的に扁桃体内の神経経路に入り、新たな神経結合を作り上げることによって情動対応をとるものである。これは高次経路と呼ばれ、刺激に対するスピードは遅いが正確である。また、ルドゥー説では、扁桃体の役割が強調されているが、視床下部や前頭葉眼窩部の重要性も指摘されている。
ヒトへの進化、特に脳の進化と情動の神経生理学的メカニズムとの関連から、情動には進化的な起源があると考えられる。動物との共通性は高く、脊椎動物が生まれてから5億年の歴史を持っているともいわれている。また、恐れ、怒り、驚き、嫌悪などは、捕食者から逃げる、即応体勢をとる、害のある食物を避けるなどの「種の保存」と結びついている。しかし、落涙をともなう悲しみはもっと複雑である。悲しみは人生経験から学習され、その経験は、別の悲しみを避けるために役立つものだ。また、他者の悲しみに共感し、同情できるようになる。この意味で、悲しみという感情は極めて社会的である。このような高次な感情は、他にも、喜び、罪悪感、復讐心がある。これらの情動*1 は、高等ほ乳類が出現した後、たかだか6,000万年の歴史しかないと推定されている。
涙の生化学的な成分の分析からも新しい知見がもたらされている。
ひとつ目は、涙の先駆的研究者であるW.フレイの1980年代の研究結果である。フレイは、タマネギの刺激によって分泌された反射性の涙と、映画を見ている時に採取した感情の涙の成分を比較した。その結果、感情の涙の方が反射性の涙よりもタンパク質の濃度が高いことを発見した。さらに、感情の涙には副腎脂質刺激ホルモンも見いだされた。これらの成分は、ストレスによって産生されたものと推定され、感情の涙はストレスによって崩れた体内バランスを元に戻す排出作用の役割を果たしていることが確認された。泣いた後に気分がすっきりするのは、このホルモンバランスの回復にあるとも指摘されている。
ふたつ目は、2011年のイスラエル・ワイズマン科学研究所での研究結果である。それは、女性の悲しみの涙には、男性の興奮をおさえる成分が含まれることが確認された、ということである。この研究では、女性の感情の涙を男性に嗅がせ、心拍数、呼吸、唾液中の「テストステロン」(男性ホルモン)の濃度を測る実験を行った。すると、男性の性的興奮が低下したことが確かめられ、脳の活動にも鎮静効果が認められた。したがって、女性の感情の涙に含まれる「フェロモン」が、男性の興奮を抑えることが確認できたとしている。この結果は、物質の特定や統計的な精度という点で幾つかの課題も残しているが、女性の涙は、「フェロモン」によって男性に影響を与えることを示唆しており、「涙は女の武器」説を裏付けるものである。
ここで改めて、泣くということを、現代の進化論的及び神経生理学的成果からみると、それは、ダーウィンの指摘のとおり、第1に、何らかの自分の欲求や欲望の非言語的な自己表現である。第2に、泣くことで、物質的な「フェロモン」、「共感」、「同情心」を通じて、他者に影響を与えようとする社会的コミュニケーション手段である。
このような知見から、女性が男性よりも泣く理由を考えると、環境の性差以外にふたつ考えられる。ひとつ目は、女性が男性よりも非言語的に自己表現したい欲求や欲望を持っているということである。それが実際に何であるのかは、言語で表現できないものなので男性にはわからない。これがよく文学者の言及する「男女における永遠の相互不理解性」なのかもしれない。ふたつ目は、他者への影響力を行使するために、女性が涙を「武器」として意図的に利用している可能性である。「涙は女性の武器だ」の支持率は、全体では34%であるが、男性では46%、女性では22%である。男性の半数は「涙は女性の武器だ」と考えているのだ。
ちなみに、日米で比較すると、泣く年間回数は、日本では、男性が6回、女性が16回である。米国の1986年の研究では、男性が6回に対して、女性は29回に上る。サンプル数や調査方法の違いから正確な日米比較はできないが、男性の日米の差はほぼなく、女性の差は大きい。米国人女性は日本人女性の倍近く泣いていることになる。泣く理由については、日本と同様に人間関係に関するものが多いため、女性が作為、不作為に関わらず、他者への影響手段として泣いているのではいかと推測される。