01
新型コロナウイルス感染症への恐怖と非合理的行動の拡散
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染への懸念が広がっている。確かな予測と対策が求められるが、ここでは新型コロナウイルス感染症についての行動経済的な分析をしてみたい。
問題の焦点は、感情や偏見にもとづく無用な争いである。国内では、自己防衛のための同調圧力が強まり、特定層に対する「バイキン」扱いやエチケットトラブルが相次いでいる。通勤電車や新幹線では、くしゃみ、咳などができる雰囲気もなくなった。欧米では、アジア人への嫌がらせや排撃が相次いでいる。一部のアジア地域では「野蛮」な行動がみられるが、日本では排外的な対応は限られ、文明性をみせている。
なぜ、このようなことが起こるのか。それを少々行動心理学的な分析も加えて探ってみたい。そして、専門家情報にもとづいた冷静行動を求める報道が有効なのかを検討してみたい。
02
行動経済学の創始者達の予言的研究
今回の事態を予言したような論文がある。行動経済学の第一期を形成したダニエル・カーネマンとエイモス・トヴァスキーが、1981年に共同執筆した「アジア病問題(Asian Disease)」を架空に想定した研究である。この仮想名称も若干のアジアへの偏見が感じられることを否めない。約40年前の研究であり、現在では「フレーミング効果」として知られている。この課題の設定は、現在のコロナ問題を予言しているようなものだ[1]。
アジアで発生した病気を前提に、アメリカで予測される予防策について、大学生に質問紙調査を行い、回答結果の合理性を判断しようというものだ[2]。
質問.
アメリカ合衆国は、600人を死亡させる脅威の「アジア病」の発生に備えようとしている。その病気と戦うためにふたつの選択的な対策が提案されている。対策の結果の科学的な推定は以下のとおり。
- 対策Aがとられると、200人が助かる
- 対策Bがとられると、600人が助かる確率が1/3、誰も助からない確率が2/3である
あなたはどちらの対策が好ましいか
この調査結果は、
- A 72%
- B 28%
であった。さらに、別の回答者グループに、次のような質問をした。
質問.
- 対策Cがとられると、400人が亡くなる
- 対策Dがとられると、誰もが助かる確率が1/3、600人が亡くなる確率が2/3である
あなたはどちらの対策が好ましいか
この結果は、
- C 22%
- D 78%
であった。
03
非合理的な判断-利得と損失の評価の歪み
このふたつの質問は、どのように解釈できるだろう。
前者の質問では、回答者の多数派は、200人の人が助かるということを、1/3の確率で600人が助かる(つまり、期待値は200人)ことよりも選好したということである。後者では、多数派は、400人の死亡が、2/3の確率で600人が亡くなる(つまり、平均期待値は400人)ことよりも受け入れがたいということである。
つまり、助かるという「利得」の選択に関しては、リスク回避的であり、亡くなるという「損失」の選択に関しては、リスク愛好的である、ということである。
このふたつの質問は、質問の仕方が異なるだけで、機会と損失は同じである。AとCは同じで、BとDも同じである。それにも関わらず、前者の質問ではAが、後者ではDが多数派となる。この回答の矛盾は、質問という「情報の提示の枠組み(framing)」の違いで生まれている。
カーネマンとトヴァスキーは、この結果も踏まえて、「意思決定のフレーミング」と利得と損失の評価関数を推定していく。これが後に「プロスペクト理論」に発展する。
このフレーミング問題は、不確実性下における意思決定では、利得と損失の評価が、情報の提示の仕方によって歪められるということを明らかにしている。
新型コロナウイルス感染症の中国での致死率がテレビ報道される致死率は、全体では2~3%であるといわれているが、年代及び健康状態で異なる。80代で心疾患などの基礎疾患がある場合は、10%以上の致死率とされている。この数字は、年代と基礎疾患の関連があるので、致死率は年代によるものなのか、基礎疾患なのか、相互作用があるのは不明である。この数字の提示の仕方は、フレーミング問題である。これで、人々はどの程度恐れを抱くだろうか。
恐らく、損失(致死率)をその数字以上に、リスク愛好的に、主観的に評価するのではないだろうか。そして、この恐れという感情が、極めて厄介である。
04
感情による状況認識の歪みと広がり
なぜ人々の状況認識に歪みが生じるのか。それは感情によるというのが、行動経済学や心理学の研究成果である。
感情によって将来の出来事の確率予測が変わってしまう。
いくつかの実験がある。人々に雑誌記事を読んでもらい、怒り、悲しみなどの感情を引き起こす。その上で、悲しい出来事や怒りを感じる出来事が起こる確率を予測してもらう。すると、悲しい感情を持った人々は、悲しい出来事の起こる確率を高く予測し、怒りを持った人は、怒りをもたらすような出来事の起こる確率を高く予測することが確認された。
アメリカでは、新型コロナウイルス感染症の感染者は少数(15名 2月19日時点)であり、他方でインフルエンザはすでに25,000人の死者を出している。冷静に状況を計算し、判断すべきであるが、一部ではアジア人への暴力などの過剰反応が起きている。
どうしてなのか。どうして思慮深くなれないのか。
心理実験によれば、恐れなどの感情のある問題に対して、より冷静に考える時間を割けば割くほど、恐れの感情が増加することが例証されている。これは、政府に対して、悲しみ、怒り、中立などなんらかの感情を持った被験者に、増税政策の根拠を説明し、態度がどう変容するかを実験したものである。
これによれば、先の感情の実験から推測されるとおり、抱いている感情と一致する説明理由を受けると政策への支持が高まることが明らかになっている。加えて、政策を思慮深く考える時間が多いほど、感情バイアスが強化されることがわかった。
これは、問題を考える時間が長いほど、その問題について広まった通説が浸透する機会が増えるためだと説明されている。一般化すれば、感情と「情報の限定性」が加わると、より非合理的な行動に結びつく。
このことは、NHKや政府が、冷静沈着な行動を呼びかけ、専門家の見解を報道すれば報道するほど、恐れを持つ人々は、より恐れるようになり、より非合理的で「バイキン」扱いのような差別的行動を生む可能性があることを示唆している。
放送局や曜日によって、専門家が異なり、見解も悲観論から楽観論まで多岐に亘り、世論に迎合して、悲観論の専門家が増えていく。3.11震災後の原発事故のデジャブを見ているようだ。ネット社会では、限定的な専門知識しか持たない専門家の情報が信頼されないのは言うまでもない。
05
リスクの計算の近道は感情
新型コロナウイルス感染症は、リスクそのものである。人々は、リスクを計算して、対応策を検討する。現代のリスク心理学者は、人々が、「近道(shortcut)」で、危険を測定することを明らかにしている。
新型コロナウイルス感染症は、リスク心理の典型問題でもある。私たちは、何らかの潜在的なリスクに遭遇すると、脳が記憶のなかをクイック検索する。もし、複数の警告記憶が引き出せれば、脳は危険性が高いと結論づける。しかし、脳は引っぱり出した記憶の妥当性を、たびたび間違える。
その古典的な例が飛行機である。飛行機事故が2度起きるとする。人々は、飛行機に乗ることに、恐れを抱いて躊躇する。なぜならニュースなどでみた事故の記憶を引き出してしまうからだ。「2度あるなら3度ある」と思ってしまう。これは確率的には間違いで、事故原因にほぼ因果関係がない。飛行機事故確率は変わらぬままであり、アメリカの国家運輸安全委員会によれば、0.000034%と自動車事故率よりも小さい(アメリカ国内航空会社を対象とした確率)。
つまり、飛行機事故の遭遇は、「不運」でしかない。しかし、人々が耳を傾けるのは「不運」である。
人々は、熟慮して計算などしないのが常だ。我々の頭の世界は、現実の正確な複製ではない
―ダニエル・カーネマン
それではリスク計算は、どんな近道を使うのだろうか。それは、感情(emotion)である。
引き金となるのは、恐怖と脅威である。
恐怖と脅威によって、人々のリスクの認識は変わってくる。交通事故の死亡者数は、アメリカでは約37,000人(2016年)、日本でも約3,200人(2019年)だ。スリーマイルの原発事故では死者がひとりも出なかったのに、化石燃料への切り替えが起こった。先にみたようにアメリカではインフルエンザで25,000人が亡くなっているのに、感染者数が3桁にも満たない新型コロナウイルス感染症への恐れの方が強い。
これは、社会的な焦点と関心が新型コロナウイルス感染症に移ったことによる、問題の「追い出し効果(crowding-out)」である。不衛生な食品市場、病院での大混乱などが毎日、報道されると、恐怖と脅威の感情が刺激される。
現代リスク心理学の先駆者であるP.スロビックは、次のように言う。
これらのこと(認識の歪み)はすべて私たちの感情のなかで作用している。そして、それが私たちの脅威の代理(捉え方)なのです。それは、リスクの統計数字ではなく、リスクの感情なのです[3]
私たちの心は、不確実性の確率を「まるめて切り下げる」傾向があり、過小評価して「基本的にゼロ」と予測する。あるいは、「強い感情を引き起こす」事象には、過大評価して過剰行動をする[4]。
06
感染対策に加えて偏見の拡散の防止
現代人は思慮深く理性的であるべきだという考えは、広くいきわたっている。
しかし、脳神経科学や感情心理学の発達によって、感情は理性にとって代わるものでも、優位にあるものでもないことが明らかにされつつある。人間をここまで進化させたのは、感情のたまものである。
人間に感情があるのは、肉食獣などの脅威から自己防衛するためである。相手を認識し、恐怖と脅威を抱き、大脳を経由せずに、感情の神経経路である脳幹を通じて、短時間で心拍数を上げ、血流を最大化して、全身に血液を送り、臨戦態勢をとらせるためである(ルドゥー説)。大脳で対象のリスク計算をしていては、脅威に間に合わない。
この観点から新型コロナウイルス感染症を考えてみると、感染そのものへの対策だけでなく、この問題が、世界の人々に脅威と恐怖を与え、感情的な判断と非合理的な行動を生み、拡大していることも問題である。
この問題に対し、政府は、専門家の意見を尊重し、冷静に対応することを求めている。そして、NHKなどの報道機関を中心に、啓蒙的な報道を繰り返している。これは、先に見たように、現代のネット社会では、人々をより感情的で非合理的な行動へと刺激しているように思えてならない。
解決策は、脅威と恐怖が、さらなる脅威と恐怖をもたらす悪循環を断つことである。脅威と恐怖が、感情による非合理的な判断と行動を生み、それがさらに脅威と恐怖に結びつく。感染者数増加報道を続ければ、飛行機事故のように、身に迫るリスクを過剰に推測してしまう。そこに、感情を源泉とする「敵と味方」を峻別する政治が介入し、問題を複雑化させる。そして、無用な経済的混乱を生み、大きな打撃をもたらす。
防ぐべきは、恐怖と脅威の感情の拡散である。
そのためには、政府方針のように、新しい患者数の増加率を減少させる対策と罹患者の致死率を下げる重篤者対策をとることである。そして、それ以上に必要なのは、脅威と恐怖を下げる施策である。多面的な情報を増やす必要がある。不足している回復者の数、罹患、治療経験や経験談などの安心情報を発信すべきだ。
恐怖感情に、専門家情報や冷静沈着行動の呼びかけは役立たない。総合的な生活感覚や安心できる情報が望まれる。
あまりにも感情的で人間的な非合理的判断が、深刻な世界経済不況をもたらすことは避けねばならない。それが行動経済学が教えるところだ。
(補註)行動経済学の心理実験について
最初に取り上げた調査の対象者は、スタンフォード大学とブリティッシュコロンビア大学のクラスでの留め置きで実施され、前者の質問の回収数は152サンプル、後者は155サンプルである。サンプル抽出は、受講学生を対象とし、無作為抽出ではなく、任意抽出である。
リサーチのプロから見れば、質問方法が適切ではなく、対象集団の定義が曖昧で、統計的な検証が難しい結果だ。しかし、任意抽出とはいえ、比率の差が50%以上もあることから、再現性はあるものと推定できそうだ。ここで紹介した心理実験は、統計学の観点からみれば、すべての実験はアメリカの著名な研究者のものだが、再現性にやや疑問を持たざるを得ない。もっと我々のような社会調査の専門家が実施しているような工夫が必要だろう。
本コンテンツの第二弾として、「隔離とバランスのある恐怖対策」を執筆した。本稿から二週間が経過し、新型コロナウイルスに関するデータが揃ってきたことで、収束予測も出始めている。一方で一部では、コロナへの恐怖感から、ネット上のデマを信じトイレットペーパー買い占めに走る行動もみられる。恐怖の感情を和らげるために、客観的な情報に基づいた冷静な行動を提言したい。
【参考文献】
本稿は、以下にあげる四つの記事に依拠している。
- 注1 David DeSteno "How Fear Distorts Our Thinking About the Coronavirus", New York Times, Feb 11 2020
- 注2 Max Fisher "Coronavirus 'Hits All the Hot Buttons' for How we Misjudge Risk" New York Times, Feb 13 2020
- 注3 Paul Slovic "The Perception of Risk (Earthscan Risk in Society) ", Routledge, 2000
- 注4 Amos Tversky and Daniel Kahneman, "The Framing of Decisions and the Psychology of Coice",SCEIENCE,Vol.211,30 January 1981
また、参考文献として以下の記事も参照されたい。
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コロナへの「恐怖」感情を和らげるために - 第三弾 収束と終息の行方
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新型コロナウイルス感染症の最新情報を、弊社代表取締役社長 松田久一がTwitterでコメントしています!ぜひフォローしてください。