01
再びの「大きな考え」
なぜ、資本主義などという「大げさな」論点が必要なのか。「居座り」首相の思い付きに付き合うつもりは毛頭ない。消費と企業の出会う市場という現場で要求されているからだ。消費も、企業も、未来を予想して行動する。"Big Think" は切実な課題だ。
日本の資本主義はどうなっていくのか。この論点は「未来を読む―四つの資本主義」で論じた。専門家的で断片的な見方ではない方向性を提示した。本来は、経済研究者などが行うべきものではあるが、過剰な専門主義が全体的な視点を許容しないので、参考にできるものが少ないのが現実だ。
「ヴェニスの商人の資本論」(1985年)以来、多くを学ばせていただいた岩井克人先生(以下、敬称略)が日本の進むべき資本主義を提示される論稿を発表された。日本で、否、世界で、Big Thinkができる少数の経済学者の提案だけに、学べるものは大きい。文章は、ストーリー性のうまく出た文学的な文章で編集者の口述筆記の感がある。しかし、チェックされているはずの署名記事なので確かなものだ。
ここでは、2024年度上半期のベスト論文といえるこの論稿を紹介しながら、改めて資本主義を論じてみる。
02
夢の資本主義がもたらした地獄―アメリカと中国
要約してみる。
現在の日本は株価などに象徴される楽観論が支配しているが、日本の危機は資本主義の危機そのものとしてあらわれている。現在の「自由放任主義」と「株主主権論」にもとづく資本主義は現代世界にディストピアをもたらし、地獄にしてしまった。
戦後、アメリカ主導で再生したグローバル資本主義は、管理通貨制度をもとにしたIMF、GATTの自由貿易体制として基盤が整備された。グローバル資本主義は、格差拡大ののちに富の平等が進むとする「クズネッツの法則」と岩井が命名した。民主主義、法の支配と思想の自由をもたらす「モンテスキューの法則」に従い、ユートピアをもたらすものであった。しかし、グローバル資本主義は、クズネッツの法則に反して、国内を勝者と敗者に分断し固定化してしまった。その典型はアメリカである。1980年代のレーガノミクスによって、「自由放任主義」の政策をとった。それは、イギリスのサッチャリズムと連動し、フリードマンの新古典派経済学に裏付けられたものだった。その結果が、勝者と敗者の分断であり、敗者の代弁者となったのがトランプである。アメリカの自由放任主義は、富の平等ではなく、勝者と敗者に分断することにより、平等のユートピアを打ち砕いた。
他方で、アメリカに対抗するように、鄧小平の「改革開放路線」によって、中国は共産党独裁政権のもとで資本主義として成長をとげた。その成功の鍵は、農村の過剰人口による低賃金を前提に、付加価値をつけて製造販売するという産業資本主義のモデルである。農村と都市の賃金格差という差異を価値創造に結びつけるモデルである。このモデルも、成熟し、新たなイノベーションが必要になった。中国の行き詰まりは、産業資本主義の成熟とイノベーションが生まれないことにある。しかし、イノベーションには、自分の発想したアイデアや方法が、権利侵害されないで保障されるという法の支配と思想の自由という「インフラ」がないと生まれない。それは、民主主義制度に他ならない。しかし、資本主義化によって生まれた富の格差への不満を抑え込むには、権力によって抑圧することが必要で、権威主義の独裁体制を強めている。これは、岩井の命名する「モンテスキューの法則」による民主主義、法の支配と思想の自由に反するものである。アメリカに代わって、発展途上国に期待した中国も、新たなディストピアをもたらした。
かつて、明治の日本人が「坂の上の雲」(司馬遼太郎)として追いかけた近代化は、現代においては、近代化の実体であるグローバル資本主義として、ふたつのディストピアという地獄をもたらした。日本は、この資本主義の危機のなかで、アメリカにも中国にも巻き込まれないで、戦前に多くの知識人を巻き込んだ「近代の超克」の答えを出す方向を選ぶべきだ。それが、明治以降に世界史に組み込まれた日本の「歴史的使命」(鈴木成高)である。岩井が西田幾多郎門下の鈴木の歴史観を取り入れているとは、少々驚いた。
03
自由放任と株主主権の論理的誤謬
岩井は、「自由放任主義」は「理論的誤謬」であると言う。
岩井の「不均衡動学」はそれを証明している。裏付けているのは、資本論の価値形態論を取り込んだ、独自の「貨幣論」(1993年)である。自由放任主義のもとで、経済が貨幣を利用する限り、価値表現するものと表現形態の矛盾に逢着し、安定し、均衡することなく、恐慌とハイパーインフレーションを繰り返すだけだ。これを避けるには、規制や第三者の介入などが必要になる。
さらに、「株主主権論」も「理論的誤謬」である。会社は法人であり、持続させていくには持続性にコミットメントできる関与者が主権者である。長い間、日本の会社は従業員主権であった。しかし、それが株主主権になると業績が悪いとすぐ逃げてしまうような投資家が所有者になる。それでは法人の持続性は成り立たない。
現代のグローバル資本主義は、ふたつの「理論的誤謬」のもとで存立している。それが、富の不平等と格差の拡大をもたらし、民主主義、法の支配、そして、思想の自由を圧迫している。日本の資本主義は、このディストピアから抜け出し、ユートピアを目指すべきだ。そのために、経済の論理だけではなく、法、政治、文化、地域、地球などの多様な関与者によって、多様性を取り込むような条件が必要である。
04
思い切った帰結
近年の岩井の論稿には、正直不満をもっていた。東大を順当に定年退職され、東大リベラル派の先生が職を得る国際基督教大学(ICU)に行かれ、不均衡動学と株主主権論の結論を繰り返されるばかりで、申し訳ないが、あまりに既成的で面白くなく、つまらなかった。
今回の論稿は、読む人が読めば、宇沢弘文氏を超える破天荒ぶりで、痞えていた胸がすっきりした。よく書かれた、という感想だ。岩井が、「近代の超克」を持ち出し、「歴史的使命」と提言されているのは驚きであった。文学者以外でこの問題に切り込んだのは、管見ながら以前に触れた廣松渉氏ぐらいである。戦前の欧米を敵に回すように、議論しにくい。
また、著者の論文で、同じようなことを論じたので、やはり問題設定はよかったのだと納得し、鼓舞された。
先の論文では、日本の資本主義は、近代の超克を目指すべきか、否か、過剰に利己的市場経済を許容すべきかで構成される四つの類型の可能性を持っているとした。そして、この四つの理念形が競争によって淘汰されてひとつに収斂していくと展望した。四つの資本主義とは、「利他的資本主義」、「交響的共同経済」、「超自由資本主義」、そして、「帝国的資本主義」である。
我田引水ながら、この類型に従えば、岩井の提言する資本主義は、「交響的共同経済」を示唆しているように思う。実は、これは見田宗介の見立てを意識した類型でもある。
05
日本の進むべきユートピア
岩井の描く資本主義は、株主主権ではなく、日本的経営のひとつであった「従業員主権」に加え、多くのステークホルダーの関与する法人ということになる。恐らく、M&Aは法的に制限される。会社の売り買いをする投資ファンドは、権利を制限される。イノベーションを生みだすための多様な環境や自由な発想を生み出す法的自由の拡大や民主主義が整備される社会だ。さらに、勝者と敗者に分断されないような敗者復活制度と富の再配分が必要となる。
岩井の帰結を想像するとこのようなものだろう。
06
資本主義の未来の選択-論理と歴史というアポリア
岩井は、筆者が選択できなかった未来の資本主義を描いている。「多様性から生まれ生み出す交響経済体」のようなものだ。この結論には、半分は賛成だ。残りの半分は、最終的には、歴史が決めるとしかいえないのではないか、といわざるを得ない。
その理由は、「理論的誤謬」である。岩井は自由放任主義と株主主権論の間違いやパラドックスを指摘し、その「間違いを正し、論理的に正しい論理」で歴史的現実を修正するようにユートピアを構想している。
しかし、この理論と現実との関係は、それほど単純なものではない。100以上もある資本論をめぐる論争のなかで、大きなもののひとつが「論理と歴史」の問題だ。宇野弘蔵やアルチュセールの議論は資本論のある意味での論理主義の徹底、あるいは切断だ。政治的正統派は、論理歴史主義だ。例えば資本論では、商品の貨幣への転化を、弁証法として展開している。すべての商品の「下僕」が、すべての商品の「王」である貨幣になる、という展開だ。
これを実際の歴史的展開だとするのが正統派だ。それは論理の問題であり、歴史とは無関係とするのが論理主義だ。しかし、最近の研究では、論理主義が優位をもち、さらには、マルクスの弁証法的展開は誤謬だと捉える研究者も多くなっている。岩井は、専門はマクロ経済だが、「貨幣論」では「誤謬」としている。下僕が王になっても、不安定でいつでも下僕にもどる、ということを論証している。市場経済が貨幣を利用する限り、不均衡であるというのはこの論理だ。
著者も論理主義の立場だが、論理と歴史的現実の捉え方は、「切断」ではなく、「否定の否定」と捉える。論理と歴史の間は、一致ではなく、否定の否定という関係としてつながっていると考える。従って、理論的誤謬を正すだけでは、そこになんからかの否定がなければ現実には展開できないのではないか。それは時間による「あそび」、淘汰時間だ。
もし岩井を批判するならここだけだ。あとはお見事というより他はない。
07
アメリカ信仰への愚痴
少しは、真っ当な研究成果をだせない、浅田彰のような今昔の若手経済研究者に見習って欲しいものだ。シュンペーター賞に過ぎないノーベル経済学賞をとるには、「アメリカ経済学会」で名を売るしかない。「落ちこぼれ」て、日本に帰り、研究業績を追い捨て金儲けに走る研究者がなんと多いことか。そんな連中に「近代の超克」という日本知識人のあり様はわからない。岩井はわかる分だけ、ノーベル賞級の仕事をしてきたとしても、現代の極度に数学的形式化を高めた論文数では劣る、ましてや、日本にいて学会付き合いがないという理由だけで、ノーベル経済学賞を支配している「アメリカ経済学会」から推薦されないことは火を見るよりも明らかだ。
99%がディストピアという地獄に追いやられたアメリカの資本主義を追いかけて何になる。日本は「汝の道を進め、そして人々をして語るに委せよ!(ダンテ)」。(資本論第1版序文)と言いたい。
08
2024年という歴史的現実―資本主義の選択
2024年はとんでもない年かもしれない。地政学ビジネスの雄であるイアン・ブレマー氏の今年の10大リスクに入ってない動きが世界を動かしそうだ。
アメリカ大統領選では、バイデン大統領が高齢批判で撤退し、人気のないハリス副大統領が立候補し、トランプ前大統領に勝利する可能性がでてきた。これは予測にはないシナリオである。さらに、まったく認識されていなかったのは、イギリスでの14年ぶりの労働党政権の誕生、そして、フランスの政権の不安定化、ドイツ経済の低迷、EUの極右政党の躍進などである。これは、EUが統合から分解する方向へと変化することを意味する。
こうした予想外の欧米パワーの変化は、世界のパワーバランスに大きな影響を与えることは言うまでもない。こうした政権交代を促している要因は、やはり、グローバル資本主義がもたらした勝者と敗者の分断であり、敗者のルサンチマンである。
分断を生み出したグローバル資本主義は、敗者の多数化によって、新たな政権を打ち立てている。その最初が、2017年のトランプ大統領の誕生であったとすれば、今年度は、ハリスが敗者を吸引するかもしれない。しかし、もはや、欧米は勝者と敗者を生み出すグローバル資本主義の歯車を進めることはない。
グローバル資本主義は、平等をもたらすことはない。また、民主主義、法の支配と思想の自由をもたらすものではない。さらに、恐慌とハイパーインフレーションを繰り返すばかりだ。
2024年は、生活者として、ディストピアを抜け出して、どんな資本主義を志向するかをたまには"Big Think" して、選択してみてはどうだろう。こんな難しいことは、情けないことに、どこかの首相のように、税金を使って「地獄」のシンクタンクに委託して考えてもらうという愚ではなく、自分で考えるべきことである。