日本人消滅論の錯覚―世相批判の論理

2024.10.01 代表取締役社長 松田久一

01

経営に哲学は必要ない

 明治日本は、金持ちを尊敬せず名声もなかった。これは、近代の建設にはよくないという批判を福澤諭吉がどこかで書いていた。ところが、令和の日本にいたっては、金持ちが尊敬されている。

 名声を得ると、その発言が注目される。ファーストリテイリングの柳井氏の「日本人が滅びる」発言と、それに呼応する論争(やりとり)に興味を引かれた。なかでも金持ちの前澤友作氏の「そんな訳ないだろう」という反論があり、面白い。柳井氏は「移民を受け入れ、海外の優秀な人材を受け入れねば日本人は滅びる」。前澤氏は、「日本人らしさこそ」が成功の鍵だろう、という。

 総じて、ネットでは前澤擁護が多いが、「グローバル企業のアジア部門の日本の販売担当クラス(日本支社長)」の日本企業でいう販売部長クラスを経験したに過ぎない「プロ経営者」まがいの人達が柳井氏に賛同したようだ。

 「やりとりの」なかで感心したのは、ネットで中高年に人気の高橋洋一氏で、「ミクロの世界での経営の論理の延長ではマクロの経済は語れない」と上から目線で柳井氏を一刀両断したことで、爽快な気分を味わった年配の方も多かったに違いない。なにを隠そう小生もそうだ。

 感情的には、前澤氏の発言が説得的で、アメリカのIT巨大企業のように中華系、インド系やアメリカ系支配の企業が多くなり、グローバルコネクションという名の属人的な「お知り合い」経営で復活してもつまらない。前澤氏に賛成だ。それにしても、「プロ経営者」に騙されて会社のトップに据える会社オーナーの気が知れない。

 そもそも彼らは会社の利益に関心はあっても、会社に愛着を持って長期に育てようとする意志などない。まるで、明治のお雇い外国人感覚だ。何より、日本のような知性や教養のかけらもない。「デカンショ」と言われたデカルト、カント、ショーペンハウエルなどの哲学や、戦後ならマルクスやヘーゲルなどの知識はない。

 高みの見物と決め込んでいたが、福澤の言葉が気になり、日本も金持ちが名声を得られる立派な資本主義になったなあ、と感慨深く感じていた。福澤が明治に批判したのは、資本主義には、金、金の我利我利亡者が必要で、そのためには、いつまでも日本の武士道や儒教倫理に囚われていたらダメだという趣旨だ。自分の金儲けしか関心がなく、分をわきまえない「プロ経営者」嫌いということは、むっむっ、小生は資本主義の流れに棹していないのか?

 ここは、やはり、近代日本とは何か、ということをおさえておかねばならない。そして、それが世界史的可能性を持っているのかということだ。「プロ経営者」嫌いとは、偏見によるが、彼らは、近代日本の歴史や日本的経営を古いと決めつける外資系コンサルタントの言うとおりの経営をし、短期に利益を出して、日本企業を食い物にし、次の就職先に向かうというグリード持ちだからだ。そして、仲間づきあい(グローバルネットワーク)で日本企業のポストをたらい回しにし、食い物にする。小生は、福澤はこういう連中が資本主義の担い手だとは思っていなかったと思うが、強欲は資本主義と社会を潰す、と確信する。





02

日本とは何か、という問題

 日本を語る上で、保田與重郎、福田恆存、そして西部邁(西部は保守ではない)は欠かせない人物で、特に、保田の「日本の橋」は名作で読んで涙した記憶がある。特に、保田は日本の戦前のイデオローグとしてはよく知られ、学徒出陣した多くの学生を戦争へと鼓舞した。しかし、何も非日本的なパチンコ屋の「軍艦マーチ」のようなものではなく、日本人に生まれてきてよかった思い、戦場で、万葉集を抱いて、水漬く屍や草生す屍になるという生き方を賞賛する心情であった。そこに、西洋近代の超克をみるという浪漫主義だ。

 この保田與重郎をとりあげ、文壇デビューしたのが福田和也だった。つい先日、呼吸不全により63才で亡くなったと報じられた。小生は、戦前の「近代の超克」に魅入られ、日本とは何かを考え続けてきた。そして、保田與重郎の美意識として、生き方と屈折した感情の文体に学んだ。そこに、1993年、福田和也の「日本の家郷」が出版された。ほぼ同年代で保守思想に興味があるのはこころ強かったが、何も惹かれるものはなかった。さらに、保守への感心対象が似ていたこともあり、著作は目を通していたが、やはり、何も感心しなかった。どうも保守と名乗る、ただの弱者志向の左派としか思えなかった。

 最近、「保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである」という発言を知り、なぜ、小生が同じ世代、同じレアな関心対象でありながら共感しなかったのか理由がわかった。

 福田は、歴史社会的な洞察を欠く、「観念保守」だったからだ。

 保守とは、資本主義以前の共同体的な関係に基礎を置く、人倫的な基礎を持つ感情体系だ。保守思想の元祖は、イギリスのチェスタトンなどであって、美しい自然とカトリックの価値で結びついた、かけがいのない共同体を、資本主義的な変化から守る感情のことだ。前にも書いたが、わかりやすいのはイギリスのドラマ「ブラウン神父」の世界だ。

 日本ではこの感情がはっきりしない。もし、イギリスをモデルにするなら、明治維新による近代化によって、壊されたものが守るべきものに該当する。日本なら柳田國男の農村世界や三田村鳶魚が描く江戸の長屋世界だろう。

 しかし、この古きよき保守すべき自然と人倫は、明治維新から約150年を経て残っているだろうか。東北新幹線の車窓から見える田園風景はこころの故郷として残っている。確かに、多くのものは形として残っている。東山文化が銀閣寺に残っているように。しかし、人々の価値や結びつきなどの人倫は完全崩壊している。

 どこに、横丁の蕎麦屋があるのか。慶応の三田にあるのはチェーン店の早食い蕎麦屋ぐらいではないか。「ラーメン二郎」は正門の横にあるが、そこを守るということなのか、と皮肉りたくなる。

 うまいコピーのような保守メッセージだが、生活実体のない、歴史社会的洞察を欠く観念論だ。福田和也氏には、安らかに眠っていただきたい。しかし、世間が保守と見なすのは錯覚だ。

 日本とは何か、を問うとき、この守るべきものは何か、という保守に繋がる問題に逢着する。

 日本には、守るべきものがある。しかし、それは何か、という問いは難しい。多くの思想家が問い続けている問題だ。日本を代表する思想家である川勝平太氏や梅原猛氏によれば、恐らく、日本で花開いた大乗仏教、とりわけ、それを思想化した親鸞の「衆生往生」、すなわち「平等」の価値となるのではないか。平等思想にもとづく「分厚い中流」の形成が日本であり、日本の資産だった。

 そう思うが、まだそこには思い至っていない。



03

経営には物事を突き詰める力がいる

 最近、ビジネス誌で、哲学が流行っている。小生の書きぶりは、難解で、読者に迷惑をかけている。それは、これまでは、実務をこなしながら取り組んできた哲学や思想を隠し味に使っているからだ。しかし最近は、隠すのをやめた。無性に、柳井氏の浅薄な発言やグリードのプロ経営者の発言にいらだつからだ。次々と日本企業を食い物にしていく輩が許せない。従って、隠し味が前面にでて、消化不良で、難解になっている。

 経営に哲学史はいらない、しかし、哲学はいる。いまさらギリシャ哲学、スコラ哲学、カントなどのドイツ観念論、ガタリなどのフランス哲学史の知識など不要だ。しかし、哲学とは、物事の本質をとことん突き詰めて論理化することである。この力は経営者には必要である。

 真とは何か、善とは何か、美とは何か。こういう生活のためには必要ないことを、生涯かけて突き詰めた結果が哲学書だ。

 世代論で出会った、現象学の先駆けとなる「ディルタイ」などはその典型だ。哲学書は一生をかけて序論しか書けない。ヘーゲルは器用な人なので、うまく書いたが、彼は世界把握に挑戦した最後の哲学者だ。ヨーロッパの片隅のプロシアにいて、世界全体を把握しようとしたのだから、こんな上から目線の野望は現代ではとても持てない。ところが企業のグローバル化は、世界史的視点での世界把握を必要急務としている。「バランスパワー論」的世界観の派生で生まれた地政学ではどうにもならない。必要とされているのは、哲学史の知識ではなく、問題をとことん追い込む思考と力だ。

 柳井氏の「日本人消滅論」の認識には、人口減少論がある。専門家の人口減少論の前提は、微分方程式モデルをベースにできている。少々数学を囓れば、その解の不安定性にすぐ気づく。しかし代案がなければ、それを提示し、数字は一人歩きする。

 経営者ならそこを突き詰めるべきだ。専門家に振り回されるのではなく、疑って活用すべきだ。同じ微分方程式の罠にはまったコロナの教訓が活かされていない。

 柳井氏は、人口減少を基礎に、グローバル化する自社の経営課題を重ねて、日本を論じている。ユニクロは、柳井氏の「カジュアル革命」理念に共鳴し、店舗マネジメントができる人材をいかに増やすかにかかっている。ダイエーの中内功氏の「流通革命論」を引き継いでいる。だから、とことん低価にこだわる。事業拡大には、グローバル展開のための海外人材が必要で、日本人よりガツガツ働く店長を増やさねばならない。店長が増えないとユニクロの成長は止まる。店長が少ないなら少数精鋭でやるしかない。それを日本経済に投映しているに過ぎない。ミクロとマクロの混同と錯覚が妙に交錯している。

 賞賛される稲森経営も、現実現場に適応した利益を生む原理を会社全体に適応させたものだ。組織を小さなアメーバのような組織に見立て、利益管理できる仕組みをつくり、それをただひたすら実践していくだけである。これができる条件は会社の独裁である。会社は民主主義原理ではないので、独裁も必要である。このスタイルを日本企業全体に、日本経済に適応したらどうなるのか。政治的に長期独裁政権をつくるしかない。隣近所が利益を追求する社会は異常ではないか。無償で喜んで働く宗教としかいいようがない。

 松下幸之助氏は、ミクロな実践経営を政治経済の運営に役立てようとして「松下政経塾」を創設した。松下経営の本質は、素直な儒教倫理であり、それ以上でもそれ以下でもない。家庭を持ち、社会生活をしていく上での、善悪の判断である。その延長線上で会社経営を論理化している。数千年前に孔子によって生まれた儒教倫理が現代でも通用するのは、それが生活合理性を持っているからである。仁・義・礼・知・信の徳目(価値)を追求する生き方で家がおさまり、国がおさまるという観念体系だ。これを、人材育成などの会社生活に応用した語録(命題)の集まりだ。現代では古臭いが、正面から否定はできない。

 柳井氏、稲森氏、松下幸之助氏を筆頭に、自分の会社の経営の成功を教訓化して、ミクロな成功を錯覚してマクロな社会に適応しようとする悪い癖が日本や世界にはある。

 ビルゲイツの成功が「嘘とはったり」(IBMにDOSを採用させた)にあるのは業界ではよく知られている。その後ろめたさがあるのか、引退後は、フィランソロピストとして社会貢献し、中学生レベルの自然書や博物誌を読む読書家になっている。推奨図書に、哲学などの古典はない。その程度でいいのだ。そこからは、評判を勝ち取るうまさは感じるが、突き詰める力はなさそうだ。やはり、幾ら金持ちでも尊敬はできない。

 古今東西、一代の成功は錯覚に陥りやすい。周りも、メディアも忖度するので、分をわきまえずに自己能力を過大評価してしまう。

 著名人の去り方は、難しい。幕末の八代目市川團十郎は、人気絶頂期の32才で謎の自死を遂げた。この死を、現実と虚構(芝居)の一致とみたのが三島由紀夫だ。芝居は虚構を演じるのではなく、リアルだ。團十郎はそれを越えたと解釈した。三島の市川での割腹自殺は、三島の亡国思想が現実であることを示すものだった、と解釈できる。しかし、別の解釈によれば、市川團十郎は、人々の記憶からいつの間にか消え去ることを望んだという解釈もある。後者が、日本的な自然死だろう。

 日本は、金持ちを賞賛する立派な資本主義社会になった。さらによい市民社会にするには、経営者とその参謀が、問題の本質を突き詰めて考えていくことである。

 経営には、新紙幣になった渋沢栄一のような儒教倫理も必要なく、哲学史も必要ではなく、本当に到達する道筋、つまり、論理性が必要である。さらに、それを独自に突き詰めていく力が必要である。この意味で哲学は必要だ。経営者は、学者と異なり、学問的には何にも縛られない。そこが経営者の思想の自由の強みである。ミクロな視点でマクロを語れない。しかし、マクロな視点の再構築は、ミクロな現実にしかない。ミクロを熟知し、錯覚せずに、現実からくみ上げられた知識が、マクロな日本経済を再生する力になる。日本人消滅論は錯覚だ。