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「日本の危機」と「のんびり」
97年は、日本と日本経済に対する極端な悲観論からスタートした。「日本が消える」(日本経済新聞、1997年1月1日付)、「がけっぷち、日本が危ないぞ」(アエラ、同年1月13日号)、「日本の命数は尽きつつある」(サンサーラ、同年3月号)と活字メディアの仰々しいタイトルが新年に踊った。
しかしながら、その客観的根拠を詳細に検証してみると極めて内容希薄である。消費税の引き上げ、減税の中止、不良債権処理の遅れ、「東京ビッグバン」と呼ばれる金融自由化に伴う銀行証券保険の再編懸念、米中接近に伴う米国の中国シフトへの懸念、人口減少などが主な根拠である。
こうした悲観論を背景に、株価の低迷と円安への反転が生まれ、さらに悲観論に拍車を駆けるということになった。
日本悲観論とは対照的にアメリカとアメリカ経済の復活が声高く叫ばれ、ドル高、株高が生まれ、さらにアメリカ経済への信頼が高まるという循環がみられる。
この危機は一括して日本の経済改革の遅れ、政治的指導力のなさに帰因すると指摘されている。本当のところは何が問題なのだろうか。現代の日本経済の中心はGDPの約60%を占める個人消費である。その中心から経済をみないことには事態の本質はわからない。
96年度の家計消費では、対前年を割ったのは12ヶ月中、5月、7月、9月、12月の4ヶ月、対前年を上回ったのは残り8ヶ月である。最新の96年度のボーナス月の12月度では、
- 実収入 1.187.590円 対前年同月比 3.3%
- 消費支出 455.324円 対前年同月比 ▲0.3%
- 消費割合 38.3% (「総理府家計調査」12月度)
となっている。資産をみてみると、
- 保有残高 1,301万円 前年比較 14万円増加
であり、その内訳は預貯金が約55%、生命保険簡易保険約20%、有価証券12%となっている。購買力は決して低下していない。
家計からみると、収入の僅かな伸びにともなって、消費のための財布のひもを少し引き締め、将来の不安に備えて低金利ながらも貯蓄を増やしている姿がイメージされる。この背景には企業収益が好転し、雇用増、収入増の見通しがあるものの、不安感がまだまだあるといった状況がある。「リストラ旋風も少し弱まり、失業の心配も少し薄らぎ、収入増加も少し期待できそうだけれど、医療費値上げや年金のことも心配だから、財布のひもを引き締め将来に向けて低金利ながら貯蓄は続けよう。不安だけれど、まじめに、のんびり、ゆっくり行こう」というのが現在の生活感覚である。コカ・コーラ社の缶コーヒーのCFでのんびりの象徴となった飯島直子が人気タレントの上位にある訳である。
金融自由化によるグローバル競争にさらされ、不良債権を抱えた銀行、保険、証券、不動産を除けば、現在の状況は、景気の追い風がない状態、財布のひもが緩むから売上げも増えるだろうという状況依存型、平均主義の経営ができなくなったという事だけである。
寧ろ、低金利からアメリカへと流れたジャパンマネーとアメリカ団塊世代のバブルを求めた個人年金資金が支えている高株価の崩壊の方が危機である。奇妙な事にアメリカの方が日本と日本経済についての評価は高い。アメリカの経済専門誌「ビジネスウィーク」は、デジタル商品群を日本経済復活の象徴と見ている。アメリカの日本評価は公平で客観的だ。海外の機関投資家の資金が日本株の買い越しであることもこのことを裏付けている。
景気回復からもっとも取り残され、規制に守られ続け、ネットワーク革命のなかでグローバルで重層的な競争にさらされている活字メディア業界が叫ぶ危機とは、自らの「おこぼれ主義」の危機であり、生活の不安感を根拠にした扇情的な危機プロモーションであり、日本と日本経済、そして生活者の現実感覚からはほど遠く、客観性を失ったものである。冷静な危機意識は必要だが、危機を叫べば売れるという手法は、もはや時代遅れと言わねばならない。
[1997.04 「生活研究所報 特別編集号」 (株)JMR生活総合研究所]