戦略的思考とは何か、という本質的な問いは自分で答えを出して下さい。なぜなら戦略的思考は自分で活用できなければまったく意味がないからです。この意味で身についた思考が戦略的思考と言えるでしょう。従って、戦略的思考とは何か、を問うことはどう身につけるか、身についた思考をどう生かすか、どんな結果を出したか、によって検証されるべきものです。
アメリカの外交政策や軍事戦略の展開、さらに企業の様々な意志決定を、メディアを通じて知ると、「戦略的だなあ」と思います。この戦略的という印象は、「思い切った決定である」、「重点が明確である」、「長期を見定めている」などです。こうした印象は、日本外交政策や防衛戦略の展開、さらに企業の様々な意志決定と対照的です。日本政府や企業は、「戦略がないなあ」と嘆きたくなる訳です。
私どもが、戦略的思考とは何かと問われれば、競争に勝つための「目的と手段の関係の明確化」と答えます。リアルな体験から言えばどう喧嘩に勝つか、ということです。戦略思考を近代の知的遺産としたのは、クラウゼヴィッツ(1780-1831)です。クラウゼヴィッツは、プロイセンの軍人でしたが、プロイセンはいつも天才ナポレオン(1769-1821)に負けていました。この負けの悔しさから徹底して考え抜かれた「戦争論」が誕生したと言っても過言ではないでしょう。戦略的思考の原典です。クラウゼヴィッツは、戦争とは、政治、暴力、偶然(摩擦)の三位一体であると言っています。つまり、戦争は政治目的を達成するための手段であり、暴力を使って自分の意志を相手に強制するものであり、勝ち負けは偶然に左右されるものである、ということです。この三つが一体となったものが戦争の本質である、ということです。不確実な情況で、暴力によって政治目的を達成することが戦争の本質です。従って、戦略とは、偶然を制して、政治目的を達成するための継起的な個別の戦闘の運用、或は進め方ということになります。戦争は、個人が「生き死に」を賭けた究極の組織的対決です。これを考察の対象とした結果が先の結論なのです。クラウゼヴィッツは負け戦のなかで考え抜いたのです。
戦争を、ビジネスにおける競争、すなわち組織間競争に置き換えると、政治は経営目的、暴力は競争手段、偶然は偶然となります。つまり、競争の本質とは、不確実性を制して、商品サービスなどの競争手段によって経営目的を達成することということになります。すると、ビジネスにおける戦略とは、経営目的を達成するための継起的な個別の競争の運用、或は進め方と定義されます。従って、私どもの戦略の定義は、競争に勝つための「目的と手段の関係の明確化」となる訳です。
「おいおい、戦争とビジネス競争は違うだろう」とお考えの向きもあると思います。戦争は敵国を潰せばいいけど、ビジネス競争は、顧客の購買を得ることが目的で競争相手を叩き潰すことではないだろうということです。まさにそうなのです。戦争もビジネス競争も、敵国及び競争相手を潰すことが目的ではないのです。戦略の定義を再確認していただければわかりますが、目的を達成するための手段を明らかにすることが戦略なのです。この意味で戦争における戦略もビジネスにおける戦略も同じでいいのです。むしろ、異なるように解釈することの方が問題でしょう。
難しいのは、目的を明確にし、手段との関係を明らかにすることです。商法には儲けることを目的とする組織が法人と規定されています。実際、企業は、売上や利益などの収益性を目標にしています。しかし、売上と利益だけで会社を運営している会社は皆無でしょう。お客さんに不愉快な想いをさせて対価を得ようとする企業は現実的には無数に存在しますが、理念的には存在し得ません。会社は、何らかの理念によって社会に貢献しようとする目的を持っています。なぜなら、儲けるということだけでは人々が働かないからです。また、霞を食べて生きていく訳にもいきません。会社の目的は、公益性と私益性の微妙なバランスの上に成り立つものです。
企業の目的を達成する指標や目標として収益目標があります。会社の理念が目的であり、その目的を達成する売上などの目標があり、それを達成するための商品サービスの品揃え、マーケティングミックス、生産方法、研究開発などがあるのです。従って、霞のような目的とそれを手段化した経営目標、その経営目標を達成する様々な手段、さらに、それを達成するための地べたの競争というように階層的に多様に目的手段関係は連鎖しています。これを「ユニークに」結びつけるのが戦略的思考なのです。ユニークとは、これをシステム化することは不可能だということです。もし、サイモン(1916-2001)が考えたように意志決定の過程をシステム化できるならば、企業はオートマトン(自動機械)になります。目的と手段関係が明確に法律や文章で規定され、ユニークな戦略思考の必要のない組織に一番近いのが行政の官僚組織です。こんな組織が競争を勝ち抜けないことは誰でもわかるでしょう。
会社の目的の階層性、多様性に加えて、手段も階層性、多様性を持ち、目的と手段の関係も曖昧です。さらに、市場環境は変化し、手段の技術革新も進むという情況です。このなかで、会社の中長期の目的を設定し、それを達成する手段を明確にして、バラバラの組織的個人を統合して、市場競争に競り勝って顧客の好意を得て、収益目標を達成する構想を描き、会社の計画サイクルに反映させて、実行していくことが戦略思考を実現する過程です。よく思いますが、こんな奇特な人は、売上一兆円に対してひとりかふたりでしょう。具体的にはどんな人でしょうか。
よく日本の戦略家として、幕末の佐久間象山(「夷の術を持って夷を制す」;1811-1864)、日露戦争での児玉源太郎(1852-1906)、日本海会戦での秋山眞之(1868-1918)、日中戦争での石原完爾(1889-1949)などの名が挙げられます。特に、近年では石原完爾の人気が高いようです。しかし、明治維新において、戦力の劣勢にもかかわらず、勝海舟(1823-1899)との政治交渉によって江戸無血開城の偉業を達成した戦略家としての西郷隆盛(1827-1877)も再発見されるべき人物のように思います。司馬遼太郎さん(1923-1996)をはじめとして、西郷を「傑出した人物の魅力」、「敬天愛人の理想家」として描いています。戦わずして勝った西郷はもっとも戦略の本質を心得ていたように思います。ナポレオンに匹敵する日本の戦略家は西郷のような気がします。西郷は遺訓で「命も金も名もいらぬ」人物が怖いと述べていますが、企業の名参謀とはまさにこうした人物像に一番近い感じがします。恐らく、こういう人物でないと企業の戦略を構想し実現していくことは不可能でしょう。というのも、新しい戦略の再構築とは企業の権力の再配分でもあるからです。
従って、戦略思考を身につけるというのは、技術的な経営手法を知ることとは異なり、理論的な知識と経験との積み重ねでどんどん進化していくものです。歴史、戦史、事例に学び、組織的な人間的経験を積み重ね、理論を勉強して現実で検証し、経営トップの立場で思考実験を繰り返すことです。こうした自分の経験と他者経験を通じて、得られるものがオリジナルの戦略の原則です。自分なりの戦略の原則が幾つか反省して言語化できれば、戦略思考が身についたと言えるでしょう。よく実務家で「理論は要らない実践だ」という「理論」を繰り返す人がいますが、これはもっとも典型的な盲信的な理論でしょう。これは選挙で「無党派」という「党派」を売りにする「小粒」の政治家と同じです。百年後の次世代が過去を振り返って、「百年前に凄い人物がいたなあ」と想いだして貰えるような戦略家をお互い目指しましょう。西郷の交渉相手であった勝海舟はこういう意味の人物眼を披露しています。
[2003.07 MNEXT]
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