マーケティングと三越百貨店の歴史がともに100年の節目を迎えた。本レポートでは、マーケティング活動が消費者にとって大きな貢献をしたことを認識させるきっかけとなったオハイオ州の一連の出来事をまず紹介したい。ほぼ同じ時期に日本で最初の百貨店が誕生したが、このふたつの出来事は同じような衝動に突き動かされたものである-すなわち消費者のニーズに応えるための新たな、そしてより優れた手法の模索である。
01
ようやく成熟期を迎えた「マーケティング」
マーケティングという概念は約100年前、米国内で誕生したものである。ロバート・バーテルズ博士は、マーケティングの歴史に関する古典的、且つ概観的な著書、The History of Marketing Thoughtのなかで、「マーケティング」という言葉が初めて名詞として使われた期間を特定している。従来、「マーケティング」という用語は動詞としての使用に限定されており、それは商人の活動を指していた。しかし1905年にはオハイオ州立大学のビジネスコースで「マーケティング」が名詞として登場し、ある職業に携わる者の業務の内容を示すものとして用いられた。一方、一般社会は、マーケティングが生産的な活動、もしくは経済の生産力に寄与するための正当な手段であるとの明確なコンセプトを持ち合わせていなかった。むしろ、ほとんどの人々にとって、マーケターは価値を付加するのではなく、単にコスト負担となるミドルマン(仲介者)であった。
02
マーケターは製造業者(メーカー)と小売業者(リテーラー)間のエージェントとして台頭
19世紀末になり、台頭しつつある製造業者に雇われた商人達は、新製品を直接小売業者に販売する必要に迫られた。初期から事業展開している消費財ブランド、P&G、コカコーラ等は米国大都市の郊外にあるママ&パパストアを回らせるため、マーケターを採用した。しかしこうして雇われたマーケターは、当時は「奥地」とみられていた地域で販売を試みる過程で多くの問題に直面した。彼らは東海岸で事業展開している既存卸売り業者を中西部市場の開拓に利用することができなかった。また小売レベルでは、ママ&パパストアが既に各地域において店舗独自の独占ブランドを展開していた。こうしたミニ独占販売店は、少ない利益しか見込めず、閉鎖的な中西部の消費者にとって不確かなブランドイメージを擁する大手消費者のブランドや方針を採用することに消極的であった。また中西部への交通網は依然未発達であり、苦戦している鉄道や、泥道を走る馬車がオハイオ州、また以西の分散された市場への進出を妨げていた。商人達は潜在的な顧客を独自に開拓し、回らなければならなかった。この任務を遂行するには、通常の開拓者精神を上回るものが求められた。歴史的にみると、マーケターはこの時点でメーカーとその対象となる市場をつなぐ新しい言葉、すなわち「マーケティング」を発案している。
03
日本の製造業もほぼ同時にマーケティングに目覚める
ペリー提督の艦隊が日本の沖合に停泊したことがきっかけとなり、日本の対米交易の扉が開かれたことは事実だが、日本の商人たちはその後も過去数百年の商慣行を踏襲し、各分野の職人が製品を直接、もしくは一つの仲介を経て消費者に手渡していた。しかし、オハイオ州立大学の学生が新たな役割としての「マーケティング」を学ぼうとしている矢先、日本のある店舗は日本のマーケティングにとって大きな一歩となる名称(業態)の変更を行なった。1904年、老舗である「三井呉服店」は「三越百貨店」に店舗名を変更し、日本で最初の現代的な小売業者に生まれ変わった。それ以前には、呉服職人は裕福な顧客層を訪問し、サンプルを見せ、仮縫いをしていた。新生「三越」は当時としては画期的な方法を採用し、日本の小売業界の現代化を推進する一業者、また複数の中小売業者からマーケターへの再編者としての名声を得ている。三越は今日に到るまで、日本の百貨店の伝統を担う旗手としての地位を維持している。
[2004.04 J-marketing.net]