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記号論からの問題提起
ジャン=ボードリャールの「消費社会の神話と構造」が日本に紹介され、ほぼ5年が経過し、浅田彰の「構造と力」で記号論はひとつの頂点に達しつつあるように思われる。これにともない、マーケティングやリサーチの分野においても、記号論への期待と混乱が見られるように思う。ここでは、マーケティング・リサーチャー、問題解決業の立場から記号論応用への問題提起を整理してみたい。
記号論とは何か?この問に正確に答えることはほとんど不可能である。ソシュール、ロマン=ヤコーブソンなどの言語学的流れもあれば、レヴィストロースのような構造人類学的流れもある。他方、ジェイムズ=パーズ、U.エーコのような哲学的一般記号論的潮流、ラカンのような精神分析学的潮流、バタイコ、ボードリャールのような消費経済学的潮流、あるいは、フーコー、ドゥルーズ=ガタリのようなフランス現代哲学の流れの人々が何らかの形で記号論を論じ問題にしている。他にも、ロラン=バルト、クリステブァと名前を上げればきりがない。このように、記号論は研究分野によっても、人によっても違う。また、記号論の主要な概念である、記号表現(シニフィアン)/記号内容(シニフィエ)、ラング/パロール、統辞/連合、中心/周縁などもすべての論者に共通したものではない。しかし、畢覚するに各論者に共通するものはふたつあるように思う。
ひとつは、パラダイム(認識構造)への問題提起である。近代哲学、近代科学の礎となる主題-客観図式、主体-客体図式の地平を、構造、機械、装置、器管なき身体という概念で、現像学の提示する共同主観性、間主観性といった概念を内包しながら、乗り越えようという試みである。
他は、現代をどうとらえるか、というup-to-dateな問題提起である。時代の感性は、確実に歴史的変化を感じさせるものがある。この変化に記号論は論理で解明しようとしている。現時点でのもっと広いパースペクティブを持った論理である。
この一見極めて抽象性の高い問題提起を具体的次元に転換すれば、マーケティングマン・リサーチャーが直面する日常的場面につながってくる。
しかし、「商品は記号である」という命題は、決して「実証的科学的」には検証できない「大きな理論(grand theory)」の領域の位相にある。
一方で、「実証的科学的」という近代科学のパラダイムに固執しつづけるなら時代錯誤に陥ることは言うまでもない。同時に、調査対象-主体という二元論的調査方法では、歴史的な変化の事実など把握しようもない。
記号論は、本質的にはこうした矛盾をはらんでいる。この矛盾は実務の世界ではこう露顕してくる。記号論的視点で消費者を見るとよく消費者が見えてくる。しかし、説得ができない。「当社の製品は消費者のニーズに合っていません。ですから、5%のシェアが落ちました。商品は記号です。当社の製品は、商品の記号システムの中で象徴的価値を持っていません。原因はここにあります。」とはトップに報告して意志決定を下すことはできない。説得、コミュニケーションができない。
「実証的科学的」リサーチは、逆に、記号論に比して説得性がある。再現性等といった「実証科学」のパラダイムの内実は説得性ということにあるとわれわれは思っている。
つまり、われわれが記号論をリサーチに生かしていくには現実的要請として、記号論と「実証科学」というふたつのパラダイムを持たざるを得ないということになる。われわれは、こうした視点から、記号論を論じてみたい。
[1984 「マーケティングリサーチャー」 日本マーケティング・リサーチ協会]