本コンテンツは、松田の講義をもとに研究グループが編集したものです。
01
欲望自由主義は超えられない
21世紀になってもちっとも人間は変わっていないなと感じるんですが、例えば元JUDY&MARYのYUKIが歌う『JOY』1)を聴けばわかります。そこで表現されていることは
しゃくしゃく余裕で暮らしたい
そして、
百年先も傍にいたい
でして、60や70才になっても愛と欲の世界というのがずっとあるのだと思います。そして、一番のポイントが
死ぬまでドキドキしたいわ
死ぬまでワクワクしたいわ
要するにゆとりを持って豊かに暮らしたい、ワクワクドキドキしていたいということでしょうか。このワクワクドキドキというのが、やっぱり基本的には欲望自由主義なのだと思います。モラルとか倫理とか世間では言われていますが、道徳なのなんやらと言われれば言われるほど、このような欲望自由主義的な価値観が人々の中心にあるのだなと思います。戦後ずっと来て、21世紀に入ってもやっぱり欲望自由主義なのかと、あらためて再発見、再認識したのです。
公共心とか道徳心とか、欲望自由主義にある種対抗する価値観がありますよね。しかし、そういうものがメインストリームになったことはないですし、これからもないのではないでしょうか。それはそれでよいのかもしれません。というのも、欲望自由主義というものが人間の根本、究極の価値観だと思うからです。さっきの歌詞じゃないですけど、人間は60、70歳になってもワクワクドキドキしたいのだと思うのです。いつまでも枯れるというのはないのかもしれないですね。きれいに枯れていく、そういうことはない、なりたくないということなのでしょう。特に団塊の世代はそういうことが最もできない世代だと思いますし。枯れていかないのだと。こう考えると、欲望自由主義的価値観、「『自分の欲望を追求していくことが人間を豊かにする』という価値は正しい」という理念を超えられる価値というのはこれから出現しないのではないかと思います(「見えない贅沢品の時代へ -消費回復の主役は誰か」参照)。
02
欲望自由主義の下でN×Nのメディアが生み出す新しい市場は「巨大市場」と「超ニッチ」
欲望自由主義という価値観が私たちの市場形成の把握を更に困難なものにさせています。例えば、ものすごく巨大なマーケットが出現する一方で、人によっては全く知らない、関心がないというマーケットというのも同時に存在します。韓国ものなんて主婦の間ではものすごく騒がれているようですが、そんなのには全く関心持たないという人もいるわけです。(関心をものすごく引くという一方で全く関心がないという、相反する性質を持つ市場が形成し、並立するという)こういう構造がどのようにして生まれているのでしょうか。大ブームになっている巨大な市場と、ごくごく一部のオタクな人たちしか知らない超ニッチ市場という、この二極化構造はどのようなメカニズムで形成されているのでしょうか。これをメディア論を使って説明できないでしょうか。以下でそれを試みてみたいと思います。
まず、メディアの形態を四つに分けて考えてみましょう。ひとつめは、一人の人間が一人の人間に伝えていくという原始的な口コミのメディアになります(1×1の構造)。ふたつめはマスコミの世界でありまして、マスコミがN人に情報を発信するという(1×Nの)構造になります。三つめはマルチメディアの世界でして、これはマスコミと逆の関係になっていまして、いろんなメディアが一人の人に説得をしようという(N×1の)構造になっています。四つめはこれらメディアの構造が重層化して形成されているものでして、N×Nとなります。現代社会はいろんなメディアの構造が重層化したものと考えられます。このN×Nというのは言うまでもなく、かけ算の構造になりますが、このかけ算が何か力、相乗効果みたいな力を生み出す劇場の世界になっているのかもしれません。このように、N×Nが現在の(デジタルコンバージェンス時代の)コミュニケーション構造になっているのではないでしょうか(「産業融合による情報家電産業の時代-デジタルコンバージェンスが変える産業と戦略」参照)。このN×Nのコミュニケーション構造下で形成される市場が巨大市場と超ニッチな極小・深掘りの世界の市場であり、現代の消費社会はそれらが共存している世界ということです(「かわいいマンバ-ガングロII・2004」、「ガングロが行く」参照)。難しく言ってしまうと、相対的価値形態ということになります。これが現実的に出現している世界ということなのでしょう。つまり、現代社会にはどこまでいっても個別性しか存在せず、唯名論と実在論が区別できない世界であり、それらが生み出したのが相対的価値形態の世界ということだと思います。
今までの話をまとめますと、現代の消費社会を捉えるのにはふたつの視点があるということ。ひとつは21世紀もやはり欲望自由主義が価値観の中心にあるということ。もうひとつは現代日本社会の最先端の消費を捉える上で必要な視点が、N×Nの世界(Nマルチプライヤー)、更に言えばNのN乗の世界(Nパワード)であるということ。このようなメディア状況で生まれているのが現代の消費なのではないでしょうか。
03
組織の破壊と階層化の進行
三国志が今、静かなブームといわれています。そのバックボーンにあるのは「組織の破壊」にあるのかもしれないですね。何故なら、過去の三国志ブームにおいても、やっぱり「組織の再構築」という時代の要請があったからです。そして、現在ブームになっているのも(終身雇用や年功序列制度の見直し等により)日本の会社組織が変わってきているからなのですね。その象徴的な例が、今なって欲しい社長とかのアンケート結果で、先般話題になったIT会社の社長とか、野球選手がトップに来るということですね。何かおかしいのではないかと思います。人々が組織とは何なのか、人が人を引っ張っていくということはどういうことなのか、わかっていないのではないかと思ってしまうわけです。(組織とは何か、それを率いるリーダーとは何なのかの意味が揺らいでいる時に)組織とは何か、リーダーとは何なのかなどを、もっともポピュラーであり、歴史を題材にして勉強できるのが三国志なのですね。つまり、組織のタガがゆるんできたときに三国志を勉強するということになると。組織が大きくなってきたりしたときなど、組織のあり方の再検討・ターニングポイントにある時に、三国志で展開されている戦略的な発想が重要になってくるのだと思います。
これらの背景にあるものも含めて問題となるのは、次のようなことではないでしょうか。日本社会は階層化、再組織化がより一層進むと。人間は社会に存在し、その中に社会関係としての人間関係があり、更にその中には経済関係としての人間の諸関係があるのですが、日本においてこれらの社会的諸関係が根本的に階層化、再組織化されていくのではないか、ということです。
(日本社会が)階層化していくという仮説はまさにその通りになっているのですが、もっともっとそれが進んでいくと。このさらなる階層化が進む、これを受け入れていく価値観というのが(消費者の側で言うと)欲望自由主義なのです。典型的な例を挙げてみましょう。同じ日本人でも、日本で頑張って働いて一人前になって給料を稼いでいくという人もいれば、中国の大連へ行って日系企業に勤めて中国人と同じ給料をもらって働く人もいます。その日系企業がこの日本人に期待しているのは、安い賃金と日本語がしゃべれるという労働力なのですね。中国人が向こうの生活の安い費用構造の中で日本語を学んで、日系企業に日本の10分の1の賃金で勤めるというのがこれまでの形だったと思うのですが、今では日本人が(日本で就職しないまたはできない人が)中国に行って中国語を学び、日本語がしゃべれるということを武器にして、そこの日系企業に就職するということが起こっているのです。日系企業の幹部はこれらの人の十倍、百倍の給料をもらっているわけで。でも、そういう格差が平気で許されている。というのも、この人がそうしたいから仕方がないのではないか、という欲望自由主義の考え方、「自由なんだから」ということであるのです。つまり、自身の選択による結果だからそれを甘受せよということです。
過去には大嶽秀夫(京都大学大学院教授、著作に『現代日本の政治権力経済権力』、『日本型ポピュリズム―政治への期待と幻滅』等)などが研究しています。80年代に出てきた欲望自由主義が日本の保守革命の一つの潮流になりかけていたのですが、結局日本では保守革命が起きなかった。なので、政治的に非常にねじれた状態になってしまい今に至っている。そういうことがバックボーンにあって階層化は素直に受け入れられているわけですね。それに反対する考え方が「自由より平等」という(自由の概念と平等の概念が並立する)結果平等主義です。なんでこのような結果平等主義が生まれたのでしょうか。日本は儒教よりも仏教の影響を受けてきていますから、「生けとし生けるものは皆同じ」「殺すなかれ」ということと、近代的な概念としての平等が結びついたからなんじゃないかと。その意識をものすごく強く持っているのが団塊よりも上の世代なのですね。
これまで話してきた階層化について、欲望自由主義というか価値観の大きな変化を縦軸とすると、横軸にメディア論というように、縦と横のふたつの関係で見ていかないと、階層化が進行すると思われるこれからの消費社会とその動向を正しく把握することはできないのではないかと思います。
04
欲望自由主義を背景にした階層化の進行が新しい「格差」市場を生み出す
この連休の海外旅行者はバブル時を超えて最大になったようですね。この現象からも、勝ち組と負け組がはっきりしてきていることがうかがえますね。このように階層化はますます進んでいくのですが、そうなるとこれからは「格差が生み出す新しい市場」がますます出現していく時代となるのではないでしょうか(「多様な格差社会への転換 -市場を捉える九つの階層セグメント」、「収入格差が生む新しい世帯層」参照)。 ところで、この格差は世代格差、収入格差、規模格差で構成されています。世代格差は歴史が生み出すものであり、収入格差は経済社会が生み出すもので、規模格差は諸々の社会的な要因から生まれてきます。そして、これらの格差を許容している価値観というものの背景には欲望自由主義があるわけです。平等主義的な価値観が支配している社会では格差は許されないものとされますが、欲望自由主義の下では「貧乏な人は自分が悪いから仕方がないのちゃう」など、「からすの勝手でしょう」ということが全面的に出てきますから、これら三つの格差も許されてしまうわけです。 三つの格差が存在することによってどのようなことが起こりうるのかを考えてみましょう(図表)。
先のN×Nのメディア論との関連にもなるのですが、これら三つの格差が互いにかけ算されることによって生み出される格差は、社会にそして消費行動に影響を与えているのではないでしょうか。これらが生じる要因としては、そういう人や状況が生まれやすいメディア環境になっているからなのでしょう。N×Nのコミュニケーションが生み出す「格差」、更にそれらの格差の掛け合わせによって出現する新しい市場があると思います。その一つのあらわれが、誰もが知っている「巨大な市場」と殆ど誰も知らない「極小の市場」ということなのでしょう。
ちょっと話が変わりますが、N×Nのコミュニケーションの象徴的な例が「コミュニケーションの漫才化」ではないでしょうか。何故こんな話になるかということなのですが、この前、食事しているときに、右隣に20代の男性2人、女性1人が会話していました。それでその話を聞いていたら、会話の仕方が漫才になっているんですよ。ものすごくテンポが速くなっている。ついて行けないくらい速い。ちなみに江戸時代の会話もものすごく速く、大きな声で話していたらしいのですが。それはさておき、彼らの会話のテンポが速くて、テンポもある。そのテンポの中で漫才のパロディがたくさん出てくる。男ばっかりで漫才している感じで、女の子が合いの手入れているって感じになっている。どんな風かというと「マジむかつく、マジむかつく、マジむかつく...」ってように、そればっかり。ワンパターンで、女の子はそれしか言わない。時々関西弁が入ったりして。結局、吉本若手芸人のパロディの感じになっているのですね。はじめ男2人だけで盛り上がらない感じだったのですが、女の子が来たとたん、ぼけとつっこみをはじめだして盛り上がったって流れになっている。そこでちょっと気になったのが、お互い言っているだけで、意味の共有化はあまり成されていなかったのではないかと。とまあ、これらの言葉や若者のコミュニケーションの問題も含めて、N×Nのコミュニケーションによって生じる格差がかけ算のようになっていき、その流れで市場が先鋭化していると言えるのではないでしょうか。
今までの話をまとめると、これからの課題はこれらの格差が組み合わされることによって生まれる新しい市場をどう捉えるか、見いだすかということになります。例えば「負け犬マーケット」とかですね。あと「ニート」とか「パラサイトシングル」という市場ですね。切り口として考えると、中長期的なトータルな視点では、社会経済的、歴史的背景、それらを受け入れる価値観の変化ということになるのではないでしょうか。短期的には格差が生み出す新しいマーケット、先鋭的なマーケットをどう捉えるか、見いだすかということになるのでしょう。
[2005.5 J-marketing.net]
【注釈】
- 1) 『JOY』 作詞 YUKI/蔦谷好位置 作曲 蔦谷好位置 唄 YUKI エピックレコードジャパン 2005年1月19日発売