マルクスが1818年に生まれておよそ190年、彼の初版資本論が1867年に発刊されて、約140年が経過している。日本の歴史のなかで比較すれば、マルクスが江戸時代の安政元年の生まれで、島津久光よりも1才若く、勝海舟よりも5才年上で、明治維新の前年に資本論が出版された事実に少々戸惑う。江戸時代の思想には到底思えないからだ。そして、マルクスが近代の歴史に残した負債も含めた遺産の大きさに改めて驚かされる。20世紀は社会主義国家の誕生と革命運動が隆盛し、マルクスと彼の理論は、信仰と崇拝の対象として厚いベールに覆われてしまった。それが、ベルリンの壁の崩壊によって取り払われ、マルクス理論の現実の姿が現れ、現代社会にとっての知的遺産の毀損状況が公表されるはずであった。しかし、残念ながらその期待は見事に裏切られ、雇用の非正規化、下層化が指摘されるなか、戦前の悲惨な労働者の状態を描いた小林多喜二の「蟹工船」や「誰でもわかる」式の資本論解説書が書店の店頭に並び、マルクスが「ゾンビ」のように「さらし者」になっただけであった。マルクスが、マルクスとは無縁に持て囃される「歴史は繰り返される」。1度目は、20世紀の悲劇として、2度目は、21世紀の茶番として。マルクスがナポレオン3世による革命を評したようにヘーゲルを真似して風刺してみたくなる。
-異端派マルクス経済学の系譜」
(2010年4月刊 ミネルヴァ書房)
向井公敏著の「貨幣と賃労働の再定義-異端派マルクス経済学の系譜」は、欧米のマルクス研究を紹介しながら、待望久しいマルクス理論の現代的決算をなし遂げた研究書である。著者は、30年以上の緻密なマルクス研究の成果をもとに、マルクス理論の現代的な「仕分け」の結果である決算書を公表した。比類なき知的な誠実さで、もっとも厳密な読みで、マルクスの理論を解剖し、マルクス理論のなかの「葬るべきもの」と「蘇生させるべきもの」を明らかにしている。
しかしながら、純粋な研究書としての性格から、戦前から続くマルクス経済学の研究史、資本論成立史や「資本論」、「経済学批判要綱」等の知識がなければ容易には読めない。また、現代の賃労働者である普通のサラリーマンや資本家である経営者が何を汲み取ればよいのかも読者に委ねられている。
評者は学生時代に、著者からせっかくの教えを乞いながら、少々マルクスをかじった程度に終わってしまった。著者の最初の収録論文は、およそ20年前の発表時から読ませて頂いているものの、著者がマルクスを読み込んだように読める知識も能力もない。しかし、誤読と誤解を恐れず、「教え子」としての評者が読んだマルクス理論の「葬るべきもの」と「蘇生させるべきもの」、そして、マルクス理論の現代的意義を解釈してみたい。
本書は、大きくII部に分かれている。「第I部マルクス価値論のプロブレマティーク」と「第II部賃労働関係論の再構築に向けて」である。
第I部は、資本論では、「第1部資本の生産過程第1篇商品と貨幣」の「第1章商品」、「第2章交換過程」、「第3章貨幣または商品流通」が対象である。資本主義とは、生活に必要な物やサービスが、「商品」として全面的に取引され、流通する社会である。マルクスは、資本主義の「解剖」にあたり、「商品」から分析を始める。そして、価値の分析から貨幣へ、そして、貨幣から資本へと抽象化し、資本を概念化していく。通俗的には弁証法的な概念展開の方法と呼ばれる。
標準的なミクロ経済学では、消費者の需要理論、そして、企業の供給理論、そして、完全競争、寡占や独占市場と展開される。資本論では、これらは資本論第3巻である「資本の総過程」に対応するものであるが、比較してみると、資本論第1巻でのマルクスの理論展開の方法は、現代の経済学が前提とし、理論化の対象にしていない商品、価値、貨幣に分析の重点を置いているところに特徴がある。つまり、標準的なミクロ経済学では答えられない三つの本質的な疑問、すなわち、商品とは何か、価値とは何か、貨幣とは何か、を解こうとしている
三つのなかでも、価値とは何か、はもっとも本質的な問いである。同時に、この問いの答えはマルクス理論が現代でも通用するかどうかの試金石ともなる。