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第1章 世界と日本はどこへ向かうのか-課題と方法論
21世紀、世界と日本はどこへ向かうのか。この課題は、企業ならずとも、将来の不安を抱える個人にとっても関心のあるものである。特に、90年代のグローバルな規制緩和の動き、情報ネットワーク化と金融システムの一元化は、世界の人々の価値意識にどのような影響を与えているのであろうか。グローバルなサイバー空間ではどんな価値観が共有されているのであろうか。経験から導かれる仮説は言うまでもなく、より個人主義的な価値観の強まりであろう。また、人々の個人主義的な価値観のあり方は、政治的次元における民主主義、経済的次元における市場原理主義、社会的次元における自由主義を支える基盤であり、国柄を左右するものである。個人主義の未来を探ることは、政治、経済や社会を占うことにもなる。
90年代のアメリカ主導のグローバル化は、日本では、少なからぬ人々によって、「第三の開国」1)として捉えられた。第一の開国は、江戸末期のペリーの砲艦外交による徳川幕府の開国であり、第二の開国は、先の世界大戦によって敗れた日本のアメリカ占領統治による様々な戦後改革を通じた開国である。日本の「伝統的社会」から「近代的社会」への転換(近代化)は、外圧によってもたらされた。日本人は、外圧によって、個人と国家に目覚め、外圧がその後の歴史経路を決定したと言っても過言ではない。しかし、外圧としてもたらされた近代化を自らの手で成し遂げたのは日本人自身であった。近代化は、政治、経済、文化に直接的で表面的な変化をもたらしただけでなく、人々の深部の価値意識に決定的な影響を及ぼし、日本独自の政治制度、経済システム、文化へと反映されたとみるべきであろう。
21世紀のグローバル化は、アメリカ主導の世界各国への「開国」要求である。2001年9月のアメリカの同時多発テロが、言わば、「グローバルな開国」要求に対する「攘夷」運動であり、国際的な「志士」的行動であったとの解釈も成立する。21世紀、世界と日本人はどこに向かおうとしているのか、という問いは、グローバル化が世界の人々にどんな価値意識をもたらそうとしているのか、と言い換えることができる。ここで明らかにしようとしていることは、世界の個人主義の価値観の国際比較を通じて、個人主義の価値意識を基軸に世界の動向を大衆的次元で占おうとする試みである。
これに答えるために、まず、我々の方法論を明らかにしてみる。
歴史の動因は、すべての人々の文化的、政治的、経済的活動の総和である。このことに疑う余地はない。ある意味で歴史を予測するとは、行動の先行系列となる大衆的意識を探ることである。しかし、原理的にも、経験的にも、人々の大衆的な価値観の動向を予測することは困難であり、何らかの前提条件や方法を想定しなければならない。
これまでも、大衆の定義やその把捉方法については様々な研究2)がなされているが、統計的な方法に基づく「世論調査」が、その動向を探る制度的な方法として広範に普及しているに過ぎない3)。他方、日本には、柳田国男の「明治大正史世相篇」にみられるような民俗学的な「定性的方法」4)の伝統もある。また、これらの統合をめざす見田宗介のユニークな社会学的アプローチ5)、F.ブローデルによる歴史的研究6)やE.ウォーラスティンなどの世界資本主義論7)、そして、言わば、ブローデルに先行した角山栄8)による「生活史」的アプローチがある。また、アメリカでは、D.リースマンの研究を起点にマーケティングの領域にもライフスタイル研究として応用されている9)。これらの方法論は、歴史や社会研究の対象を、「庶民」や「大衆」の「消費財」や「生活」に焦点をあてた、それぞれ尊敬すべき優れたものであり、現代社会の新たな再認識をもたらしたものであることは言うまでもない。しかし、これらの方法論を我々の目的からひとつひとつ吟味して再構成し新たな方法論を確立することは我々の力量を遥かに越えるものである。したがって、国際比較を通じて、グローバル化にさらされている個人主義の価値意識を基軸に世界の動向を大衆的次元で捉える目的に最も近接する方法論として、「個人析出」(individuation)10)という丸山眞男の方法論の活用と修正を基軸に据えることにする。丸山方法論を利用する理由は後述することにする。
我々が捉えたい大衆とは、生活を深掘りし続ける人々である。「書かれたもの」や「話されたもの」という研究対象の次元においても、それを収集するメディア(調査票やインターネット等)の手段によっても、捉えることのできぬ対象である。こうした「もの言わぬ」大衆像は、柳田国男の「常民」や吉本隆明の「大衆の原像」11)を継承するものである。多くの大衆批判者12)が指摘するように、現代は為政者や知識人が大衆化し、大衆が知識人化し、現代社会の最高の権力者として君臨していることも首肯できる。しかし、批判すべき大衆は、批判されるべき「欲望の権化やルサンチマンの温床」として閉ざされた概念操作で捉えられるような楽観的な対象ではない。知識人が、批判し離脱すべき対象でありながら、同時に、回帰し知の対象化すべき存在として、大衆の原像は措定される。少なくとも、直接的な方法によって記述されたテキスト、口述された記録、インタビューや「方法論的個人主義」13)を前提とする統計調査などの方法だけで把握できるような対象でない。
したがって、大衆的な価値意識を捉えるには、限られた直接的方法に加えて、知識人や為政者に反映された言説を「大衆の鏡」14)として捉えるか、仮説を対象に投げかけ反応への軌跡として探るか、現代の消費社会において選択された商品やサービスに表現された消費現象や生活史として分析するしかない。これらを知的伝統のもとで総合的解釈を行うという方法が残されているのみである。
ここでは、大衆的次元での価値意識を探るために、ひとつは、大衆的な価値意識の反映としての知識人の言説を分析の俎上にのせ、もうひとつは、仮説検証型の質問紙調査法によって、新しい「リテラシー」を有するインターネット利用層へのリサーチの国際比較によって量的検証を行い、さらに、知識人の将来を巡る言説の対立状況と大衆的次元での価値意識との対応関係から総合的な解釈を試みることにする。個人主義を捉える仮説として利用するのは、丸山眞男の個人析出、すなわち個人主義を捉える方法論である。