江戸は私たちの想像以上に経済社会化が進んだ時代であった。現代社会のさまざまな規範や制度の淵源が形成されている。「日本的」と感じられるものも、この250年の間に形成されている。ここでは酒造政策を中心に以下の点を掻い摘んで論じる。
- 江戸とはどんな時代だったのか
- 江戸酒産業はいかに形成されたのか
- 規制政策、規制緩和政策の採用された歴史的背景、政策が産業に与えた影響はどのようなものだったのか
- 江戸酒産業と規制政策の歴史的教訓とは何か
結論として、経済規制政策、規制緩和政策、そして産業政策の考え方や枠組もこの時代に形成されていると言っても過言ではない。
はじめに
現代が、明治維新、先の大戦での敗北につづく「第三の開国」の時代と呼ばれる大変動の時代であることは言うまでもない。日本経済においては、バブル経済の崩壊、景気後退局面から約5年が経過しようとしている。しかし、未だ、明確な方向が見いだせないまま、自然災害、社会的事件に遭遇し、未曾有の危機に直面している。これは、単なる景気の短期的な循環的側面の課題ではなく、歴史的、構造的な問題に直面していることの証査であるように思われる。
この歴史的危機の状況のなかで、処方箋として提示されているのが、「規制的緩和政策」ある。経済規制に関しては、「原則自由」とし、最低限の規制によって、自由競争を促進し、経済的活性化を進めようとするものである。総論では社会的合意が形成されているように見えるが、個別産業では、異論、反論が渦巻いている状況である。理論的に多くの問題を抱えていることもまた事実である。
本稿は、江戸時代の酒造政策を詳らかにし、政府政策の産業への影響、規制政策の功罪を歴史的に検証しようとするものである。その狙いは、「人間の知恵」と呼ばれる歴史的教訓を得ようとするところにある。
01
江戸という時代
慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍になり、江戸に幕府を開いて、江戸時代、徳川日本は始まる。17世紀から19世紀まで約250年の期間である。この間、家康から慶喜まで15代の徳川家の将軍の統治がつづいた。
江戸時代は現代からみれば、「明治以降の近代化」以前の時代である。対外的には「鎖国体制」をとり対内的には、「幕藩体制」をとった。長い政治的安定と平和が維持された時代でもあった。経済的には、身分制にもとづく兵農分離、そして幕府と藩を主体とする領主経済、米を基軸とする石高制がとられた。
この江戸時代を現代との関連でどう評価するかについては、いくつもの見解がみられる。
西洋との比較、特に、科学的精神と科学進歩の遅れの要因を鎖国にみられる「島国根性」にもとめる否定的な見方は、和辻哲郎の『鎖国』に代表される。
他方、古代奴隷制―封建制―絶対王政―市民革命―近代社会という歴史図式のもとでは、封建制にもっとも類接する歴史段階である。かつて、歴史家、服部之聰は、同時代に対外的な影響を受けながら、インドや中国よりも先んじて「近代化」しえた根拠を、資本主義の前段階における「厳密な意味におけるマニュファクチュアー」が江戸時代にみられたことにある、と主張した。江戸時代をより積極的に評価した代表的見解でもある。いずれにしても、江戸時代は、貨幣による市場取引が経済の全体を支配する近代社会の前段階にあたる。また、市場経済と政治が分離し、市場経済が政治より優位に立つ近代社会にもっとも近く、市場経済が成長し、経済社会が定着した時代でもある、つまり、もっとも現代に近い歴史であることに違いはない。
江戸時代の経済を概観すると、17世紀、18世紀、19世紀と100年単位でその特徴を整理することができる。江戸時代の酒造政策を明らかにする前に少し整理してみてみる。江戸時代の経済は、17世紀が「都市と外延的成長の時代」であり、18世紀が「停滞と内包的成長の時代」、19世紀が「地方とプロト工業(近代の工場制工業、工業化の前の原型工業)の時代」と特徴づけることができる。
酒造政策の転換が行われるのは、17~18世紀の転換の時代、すなわち、「峠の時代」である。江戸の経済成長を山道に喩えるなら、17世紀は高度成長、バブル経済の道であり、18世紀は三度の大飢饉と自然災害に見舞われた下り坂であった。丁度、峠は18世紀初頭、8代将軍吉宗の時代である。
02
江戸の市場経済化と酒産業の成立
江戸の誕生・消費の分離
江戸の経済は、領主経済といわゆる「民間経済」によって構成されていた。領主経済は、将軍や領主が貢租として領民から米を徴収し、それを俸禄として家臣に与え、対価として忠誠と軍役を得る。この領主経済に対して、被支配層である農民と商工業者によって構成される経済がある。ここでは、農民の農作物と商工業者によって作られた物品やサービスが、貨幣によって市場取引される。
この民間経済に使用される貨幣は、貨幣の独占的製造権をもつ幕府によって供給、市場取引されるとともに、米以外の物品やサービスも貨幣を通じて支配階級に取引される仕組になっていた。被支配層は、自給自足を原則としながらも、徐々に貨幣を通じた市場経済に依存する比重を高めていった。特に、木綿や酒がもっとも早くその商品としての市場化を進めていった。
江戸の市場経済化をもっとも大きく進めた要因は大都市江戸の誕生にある。幕府は、領主制にもとづいて、領主に城下町建設を促した。約300もの諸藩の領主はこの方針にもとづいて城下町建設に乗り出した。城下町には、領主の家臣が居住するとともに、家臣の生活を支えるさまざまな商工業者が必要になる。新しい城下町にこうした商工業者を誘致するためにさまざまな優遇策がとられた。一般的には、住居用敷地の無償提供、地子銭、などの租税の軽減、楽市楽座による自由取引の保障などである。
そのもっとも巨大な城下町が江戸である。江戸の人口は正確には知ることができないが、18世紀中頃には百万人に達していたとみられている。「諸国の掃溜」と揶揄されながらも世界最大規模である。将軍直属の家臣団である旗本や御家人、参勤交代の制により、隔年の江戸居住を義務づけられた諸大名と常詰家臣が生活をする必要があった。これらの武士層が50万余、生活必需品やさまざまな商品やサービスを提供する商工業者、町人層が50万余であったことが知られている。
この百万人の生活を支えるために市場経済化が進んだのである。さまざまなものが商品化されて市場取引の対象となっていく。製造商品としての主なものは、養蚕・製糸、綿織物、酒などであった。江戸期の製造業のなかで、これらの三商業がどれだけの比重を占めていたかは定かではないが、明治初期の「明治7年府県物産表」にもとづく推計によれば、製造業総計の33%、あるいはそれ以上とされている。酒造業だけでも17%以上を占めていたと考えられる。江戸初期においてはもっと大きな役割をもっていたことが伺い知れる。
この江戸市場に商品を供給したのが、「天下の台所」と呼ばれた大阪であった。市場経済化の一方の担い手である。江戸が買い手になり、大阪が売り手となった。なぜ、地理的に離れた大阪がこうした役割を果たすようになったのかはいくつかの理由がある。
ひとつは、江戸周辺の経済、後の「地廻り経済」が未発達であり、江戸の巨大な需要に対応できなかったことがあげられる。ふたつめは、幕府の命により、延宝元年(1673)に、東廻り航路、翌年には西廻り航路が、河村端賢によって開かれたことである。このことによって、菱垣廻船、樽廻船という恒常的な輸送手段が生まれた。つまり、比較的豊かな西の物産を大坂へ集中させ、大坂から江戸への大量輸送が可能となったのである。陸路での馬の輸送には時間と輸送量の面で限界があった。三つめには、大坂及び京都近畿周辺は歴史的に優れた商工技術と人材が豊富であったことである。
江戸という巨大都市が誕生したことにより、生産と消費が一体となった社会から、生産と消費が分離された社会への転換が始まったのである。江戸、大坂、地方という地理的分業化によって市場経済化は進んでいった。
新しい価値・清酒と酒産業の誕生
自給自足が中心の経済では、物産は商品とはならない。酒も同様であった。
酒の醸造は、古代に「民族の酒」とし登場して以来、「朝廷の酒」となり、寺社にその技術が引き継がれ、中世には「南都諸白」が銘酒として知られた。こうした技術が広く各地の村々に伝承され、民間に普及していったのである。当時の多くの人々が飲んでいたのは、「諸白」(清酒)ではなく濁酒であった。
柳田國男によれば、酒の醸造は、村の有力者(庄屋、名主など)が兼業として、自然に生息する麹と「強清水」と呼ばれる神社の湧き水を利用して醸造した。そして、その飲まれようは、神事や通過儀礼などの年中行事や祭りに、大勢の人々とともに饗飲されるものであった。人々は酒の旨さよりも、共同で「異常心理」を経験すること、酔うことに酒の価値を見いだしていた。村の共同の人間関係がこうした酒の価値を規定していたのである。
このような伝統的な酒の醸造と飲み方は、少なくとも明冶37年(1904)の自家製造酒の全面禁止が法制化されるまでは続いたようである。また、地方によっては大正昭和まで続いていた。宮沢賢治の大正期の作品に『税務署長の冒険』という面白い題名の小説がある。これは密造酒摘発の物語であり、この事実によって法制化以後も根強く酒造りが村々に残っていたこと、また、政府への密かな民衆の抵抗を伺い知ることができる。
都市の成立は、「掃溜」という言葉に象徴されるように、村の人間関係とは異なる社会関係を創造することになった。新しい酒の価値が求められたのである。「納豆的な人間関係」から、「原子的な人間関係」の要求する「独りで飲める旨い酒」へと価値が転換したのである。この価値転換に対応したのが、「諸白」で、江戸市場を最初に制したのは、南都諸白から技術を継承した「伊丹諸白」であった。
井原西鶴が称賛する伊勢松坂の出身の三井家始祖、三井高利に並び賞される大商人に鴻池善右衛門がいる。現在の鴻池新田(東大阪市鴻池町)は鴻池家の新田開発の成果でもある。この大商人の基礎を創ったのが、鴻池幸元である。幸元は、伊丹に隣接する宝塚で濁酒をつくっていたが苦心の末、芳醇な清酒の醸造に成功する。
幸元は、これを江戸市場に投入する。これが人気を博し事業が拡大していく。輸送は陸路で馬を使い、四斗樽を一頭の馬にふたつずつ積んで運んでいた。この単位が後の海路での輸送単位の「一駄」の語源になる。この事業はさらに成功し、大坂へ進出して醸造とその販売を始める。さらに、寛永年間(1624~44)には、海運業に乗り出し、江戸への酒の運搬と帰りには諸大名の貨物輸送を受託し、「のこぎり商売」でも成功した。「江戸積酒造業」の始まりである。
大坂から江戸に運ばれた樽酒(「下り酒」)は、江戸十組問屋の酒間屋に荷受けされ、小売りへと卸売りされ、小売店が水を加えて完成品にして、徳利などの容器で「量り売り」されていた、と考えられる。しかし、この時代の小売りでは「店先売り」は極めてめずらしい。
呉服業を営んでいた三井高利の「三井越後屋」は「現金掛値なし」、「店先売り」中心で革新的な売り方として賞賛されていた。多くの大店では風呂敷包みに商品を入れて背負い訪問販売するのが主流であったからでる。恐らく、小売りの主流は、「裏店」の長屋に居住する「雑業的」な人々、「棒手振」(天秤棒でかついで物を売り歩く人)などによっても担われていたことも考えられる。いずれにしてもこの時期の小売り段階がどのようなものであったかは判然としない。生産、卸、小売りの明確な機能分担がなされていなかったことにもよると考えられる。銘柄は有名なものを除いては問屋によって決定されていた。(「手印」)この販売制度は、生産者が問屋に販売を委ね、問屋が主導権を握る「委託販売システム」であった(山田聡昭他、『伝統と革新』)。
ここには、伊丹諸白の典型的な成功物語をみることができると同時に、商品としての酒の誕生と酒造りの関与者が産業として組織化されていく過程を知ることができる。伊丹諸白は、「丹醸」として名を馳せるとともに、「剣菱」「男山」などの銘柄も広範に知られるようになる。元文五年(1740)には、将軍吉宗の「御膳酒」となっている。
伊丹諸白が成功した要因には、商品としての品質の高さ、それを可能にした醸造技術の開発、甕・壷容器から四斗樽への代替による輸送の軽減、馬による陸路輸送手段の開発、開拓された航路、菱垣廻船の早期利用などがあげられる。
江戸の誕生とともに、酒は新しい価値をもった商品となり、酒の造り手、造り手間の競争、醸造技術、買い手などで構成される産業が誕生したのである。
03
酒造規制の強化と緩和-その背景と影響
元禄の酒造規制政策
17世紀の江戸時代は「人口爆発」の時代だった。
江戸前期には、年率0.61%ないし0.96%の成長である。これは、「前近代社会としては驚くべきハイ・スピード」(速水・宮本、『経済社会の成立』)であった。城下町が建設され、新田開発、灌漑工事などにより耕作地が拡大され、人口も増大していった。まさに、労働人口と耕地面積という経済への投入資源を増大させることによって、外延的な高度成長を達成したのである。
一般に、為政者の酒規制政策の起源と言われているのは、建長3年(1251)、鎌倉幕府が発布した「沽酒禁制令」である。沽酒とは「売る酒」の意味であり、酒の売り買いを禁止したのである。しかし、経済社会の成立以降をみるならば、その起源は江戸時代、幕府が酒と関わりを持つこの時期である。
明暦3年(1657)、第四代将軍家綱の時代に酒株が制定されている。これは、酒の製造販売に関し、三つの側面を規制、制限するものであった。人的限定、量的限定、地域的限定である。幕府は、この株を通じて酒の生産量を規制し、株札に表示されている株高によって数量を統制した。しかし、現実には減醸規制の有無とその割合が毎年異なっていたために、株表示の石高と現実の生産高・生産能力は常に乖離し、幕府は現状把握とその統制との繰り返しに陥ることになった。
明暦3年から正徳5年(1715)までの江戸前期に、約30の酒造統制令が発布されている。その特徴は、明暦3年に定められた酒造量を基準に一貫して減醸を命じているが、減醸の規模は、2分の1から8分の1までに拡大していく。元禄10年(1697)には、株が改められ、より固定化されるとともに、50%の運上金が課される。そして、2年後には再び減醸が指示されている。
この元禄に代表される減醸令はなぜ必要だったのであろうか。どのような背景があったのだろうか。また、その結果、どのような影響を酒産業に与えることになったのであろうか。
減醸政策をとった三つの理由
幕府が減醸政策をとった背景には三つの理由が考えられる。
ひとつは、物価統制、特に米価の安定をめざす必要があったことである。江戸時代は、「石高制」、つまり、「米本位制」である。すべての取引の基礎に米価が置かれることになる。酒造りは、その主原料が米である。従って、酒の醸造量と米価とは深い関連をもつことになる。特に、全国規模で酒産業が成長してくると、米価に大きな影響を与えることになる。この時期、酒産業は急速に成長し、一方、人口爆発ともいえる需要の拡大に直面している。また、大坂を中心とする米市場も大きく成長し、米の「延取引」や「空取引」が盛んに行われるようになっていた。米の値上がりを見越して、差益を目的とした取引が広がったため、実需の増加に加え、「仮需」も生まれた。幕府は、新田開発、灌漑工事などにより米の耕地面積の拡大を奨励する一方で、米需要を抑制する必要があった。
ふたつめは、都市需要の急増である。寛永10年(1633)に、江戸の人口は約30万人と推計されている。それが100年後には、100万人を超すまでに急成長している。特に明暦から元禄までは、56万人から70万人へ急拡大している。この都市人口の急成長に米を中心とする諸物産の供給が間に合わなかったことである。
三つめは、幕府支出の増大から生まれる貢租不足、財政的事情である。5代将軍綱吉は、文治政治を目指し、護国寺・寛永寺根本中堂・湯島聖堂・日光東照宮などの造立あるいは再建を積極的に行ったため、財政が破綻しつつあったのである。元禄10年の酒への50%の運上金付加は、荻原重秀の発案で実行された、と言われている。
これらの現実的な背景とともに、徳川幕府が生まれて100年の平和が継続し、戦役を主任務とする武士の生き方や価値観が揺らいでいたこともある。これまでの思想信念体系の変動期でもあった。戦役のない武士を社会からみれば単なる非生産的な寄生的な層にすぎず、その存在価値が問われざるを得なくなってくる。
藤原惺窩から林羅山へと引き継がれた朱子学は、朱子学のもつふたつの方向(規範性と自然性)に引き裂かれる。ひとつは、「規範性」をより強化し倫理的純化を目指す方向であった。それが「実践」を強調する山鹿素行の目指したものであった。もう一方は、「自然性」を純化し、天然・自然秩序と同様に「天」が与えた「性」を「五倫」として受け入れ武士道を実践することであった。これが「(人間が天から与えられた)性」を道として説いた伊藤仁斎であった。
こうした朱子学の二元化を再統合し、近世において初めて政治を認識した荻生徂徠を、丸山真男は高く評価した。徂徠は朱子学を「聖人への人格修行から先王が国を治める学」、幕府の政治イデオロギーへと読み替えたのである。徂徠こそは将軍吉宗の政治顧問であった。
この認識の成立によって、政治と道徳が分離され、政策が独立化してくることになる。経済政策の萌芽が生まれるのである。その先駆けが荻原重秀の元禄8年(1695)の貨幣改鋳であった。
酒造規制政策は、結果として酒産業にどのような影響をもらしたのであろうか。それは、既存の酒造業中心に酒産業を再編成し、その急成長に一定のブレーキをかける効果があったと思われる。伊丹諸白の地位は確立した。他方、物価抑制の効果はほとんどなかった。
伊丹諸白の代表的な成功者であり、先に取り上げた鴻池家では、酒造規制が本格化する元禄以前に酒造業を廃業し、海運業へ、そして金融業へと事業を移行させている。理由は、「酒造は大切な米穀を年々潰し、自ら米を麁末に致し勿体なき事」(「籠耳集」)とされているが、先取精神の旺盛な商人にとって、酒産業は魅力のない産業となっていったのであろう、と推測できる。収益の鍵が醸造量にあり、その量が幕府によって決定され、毎年変わり予測できないようでは計画的な経営など不可能であるからである。
吉宗の勝手造り令と規制緩和政策
元禄の減醸政策は、荻原重秀と真っ向から対立した6代家宣、7代家継の側用人、間部詮房と侍講、新井白石によって進められた「正徳の治」によっても継承されるが、運上金付加は廃止される。そして、続く吉宗の時代には減醸政策が180度転換され醸造奨励策がとられる。まさに、原則自由の規制緩和政策がとられるのである。
吉宗は武家政治の復権を目指し、極端な質素倹約で知られるが、酒造政策と米価政策に関しては、正反対の政策を採用する。そして、その決定打と言えるものが、宝暦4年(1754)、9代将軍のもとで発布された「勝手造り令」である。
しかし、実質的には、正徳5年(1715)から天明6年(1786)までの吉宗統治の約70年間は、自由営業期間であった。なぜ、このような政策の転換が生まれたのであろうか。また、規制緩和策=勝手造り令によって酒産業はどのような影響を受けたのであろうか。政策転換が行われた理由はふたつある。
その最大の理由は、米価の引き上げを目的とする政策課題があったからである。すなわち、米の供給側の改善がみられ、米の需給逼迫状況が解消され、供給過剰状態に陥り、米価が下落したことである。他方、米以外の物価は下がらなかった。庶民の可処分所得が増え、米以外の需要は低下しなかったからである。武士階級はこの問題に直面することになった。多くの大名は大坂に米を送って換金することで、国元や江戸屋敷の生活費を調達していたからである。この結果、俸禄を米で支給されている武士層にとっては死活問題となった。
そこで、吉宗は、「空取引」、「延取引」を幕府公認で行ったり、「置米令」、「買米令」などの米の需要創造政策をとった。これらの一連の政策に酒造規制緩和政策は位置づけられていたのである。供給過剰の背景にはふたつの側面がある。
供給面では、17世紀に行われた耕地面積の拡大などの成果がでてきたことである。同時に、投入資源の拡大のような「工学的」努力に加え、米の品種改良などの「農学的」努力が稔りはじめた。
需要面では、都市の人口増加が一段落したことである。度重なる飢饅と災害といった外的要因に加え、都市への過剰集中が生み出す「蟻地獄」効果が現われ都市での死亡率が高まったと推定される。さらに、地方から都市への人口流入が止まり、逆に、地方での農村工業化の進展によって、都市から地方への人口の流れが生まれた。
また、大坂では、奉公人の年季が長期化し、婚姻年齢を上げ、出生率を低下させた。江戸では、反対に、職業の「雑業化」(短期雇用)が進み、結婚制約条件が開放され、結婚年齢の低下を生み、都市への定住化が促進された。本来、定住化は人口増加の圧力となるが、何らかの相殺効果が(「蟻地獄」効果との相殺か)働き、江戸の人口は減少せず維持されることになった。
このように増え続けていた需要に減少傾向、すくなくとも「停滞」傾向がみられ始めた結果、需要拡大が抑制されたのである。
政策転換のふたつめの理由は、農業政策の転換があったことである。吉宗以前の政権では「作付制限令」によって米と麦以外の物を作ることは禁止されていた。吉宗はこの基本方針を転換し、その土地土地にもっとも適した作物を作らせるように変えた。主穀中心の米作農業から地域特性を生かした特産物農業への転換を行ったのである。
享保18年(1733)には、日本全国の資源調査が行われている。この結果、各地に名産品、特産品が生まれてくる。吉宗の現実主義は日本の自然的風土の多様性を生かそうとしたのである。そして、醸造の奨励こそは地域特性を生かした産業育成そのものだったのである。
一方、この政策は、一連の米価引き上げ政策の一環としての「減反政策」とみることもできる。
大岡越前守の流通組織化政策
果たしてこれらの一連の政策は成功したのだろうか。地域特性を生かした産業育成は確かに成功しているように思われる。しかし、米価引き上げ政策には失敗していると言わざるを得ない。大岡越前守忠相の提案を採用しその政策が効果を見せ始めた享保20年(1735)、吉宗は米価引き上げ政策を断念し、貨幣改鋳を許可しているからである。
大岡越前守忠相の提案は、「物価引き下げに関する意見書」と言われるもので、吉宗のように米価を上げる政策ではなく諸物価を下げる流通政策を採用することであった。米価を引き上げることではなく諸物価を下げることによって同じ効果を得ようとしたのである。
具体的には、流通の三段階、つまり、問屋、仲買、小売りごとに仲間を組織化させ、相互の監視を行わせ、適正利潤と適正販売の相互監視をさせるとともに、仕入れ先を制限し、幕府への報告義務を課したのである。つまり、仲間という業界団体を形成して、業界を制御していこうという政策である。これは一定の成果を収めた。
市場経済において、需要と供給のバランスは価格メカニズムによって調整され均衡するという経済認識からすれば、吉宗の政策は需要を拡大し、供給を抑制し、米価を引き上げるという極めて理にかなった政策であった。しかし、実際には効果はなかった。むしろ、こうしたメカニズムの本質にある人間行動を洞察した大岡の政策に軍配が上がった。
日本の業界体質、規制体質と椰楡されるものは、歴史的経験をふまえた知恵の総体であることを、このことは示している。日本人のもつ能力のひとつに組織化能力がある、とよく指摘される。これはその能力がもっともうまく発揮された事例である。この政策を継承発展させたのが、後の田沼意次である。
70年間の規制緩和、すなわち営業自由の時代は、酒産業にどんな影響を与えたのであろうか。それは大変革をもたらしたのである。元禄の規制時代は、既存の醸造業の利益が保護された。「都市酒造仲間=古規組を中心とする特権的な酒造業者の繁栄期」であった。規制緩和によって、灘目・今津の新興在方酒造仲間=新規組の台頭を迎えたのである。その結果、伊丹諸白から灘目の時代へと業界リーダーが替わった。勝手造り令はこの動きに拍車をかけたのである。なぜ、伊丹諸白から灘目・灘郷への転換が起こったのであろうか。
灘郷で大きな技術革新が進められたからである。ひとつは、足踏精米から水車による精米を採用したことである。このことによって、精米スピードと精米率が飛躍的に上昇した。さらに、仕込技術の革新、寒造りへの集中、それを可能にする巨大蔵の建設、蔵人による分業体制の確立によって、より品質の高い酒を量産化することに成功したのである。伊丹諸白よりもより旨い酒をより多くつくることに成功した。「灘の生一本」の神話はこうして形成され、明治に台頭する伏見の酒の時代まで灘目・灘郷の時代が続く。この技術革新を可能にしたのは、地理的特性から生まれた技術(水車)とその土地で育まれた人材の集積(蔵人)であった。
04
江戸の酒造規制・緩和政策の教えるもの
江戸期の酒造規制・緩和政策を前期と中期を中心に整理してみた。この歴史は何を教えているのであろうか。いくつかの仮説的な教訓を引き出してみる。
まず、最初に確認しておくべきことは、産業が進化していく原動力は、新しい価値を求め続ける人間の願望とその需要、そしてそれに応え続けて技術革新を進めるつくり手の存在である、ということである。江戸の大衆は伝統的な「酔うための酒」ではなく、楽しめる「旨い酒」を望んだ。この新しい酒の需要に応えることに最初に成功したのが伊丹諸白であり、次に、よりよく成功したのが灘目・灘郷であった。
減醸政策はその狙いがどうであろうと、こうした変化の方向にはなんら影響を与えることはできなかった。
変化のスピードを弛めたり速めたりすることはあっても、産業が変化する方向にはなんら影響を与えていない。規制の本質は、供給者間の競争ルールを決めることにある。
「規制」は変化を弛める効果をもち「緩和」は変化を促進する効果をもつだけである。
第二に、価値競争のないところでは価格競争が生まれ、価格競争を制止するものは人間の組織化能力に依拠した秩序形成しかない、ということである。世界でこうした秩序形成能力をもつ国は日本しかないであろう。
一方、こうした秩序は、技術革新を阻む既存勢力の特権的な利益保護団体に転化しがちである。吉宗と大岡の物価政策を比較すれば明らかである。
第三に、イノベーション、技術革新、新しい価値の発見は、自然的、文化的、歴史的多様性から生まれる、ということである。
なぜ、伊丹諸白が最初に覇を得、そして灘にそれを譲ったのか。
なぜ、灘が成功したのか。品質の優秀性や技術革新については、先に触れた通りである。しかし、その原因をさらに追求していくと、地理的特性や自然的特性などの自然環境要因とそれを生み出した人々の価値観や文化などの歴史的背景に収斂されてくる。つまり、歴史的風土に根ざした固有性こそが革新を生みだしているのである。
灘の水車による精米、宮水の発見などは地理的特性と自然の持つ偶然性以外の何物でもない。それを人間に役に立つ価値として引き出し、必然性に転化させることこそが革新の源泉であるように思われる。
宮本又郎・速水融は、江戸時代の経済社会について、「こういった(多様な)自然条件は、日本にとって天与のものであり、(略)経済的発展の条件として、(略)大きな要素となった」と総括している。
司馬遼太郎は、明治を時間としての時代ではなく空間としての国家であるという認識を示している。「清廉で透き通ったリアリズムをもった」国家だと評価している。そして、それを生んだのは「江戸日本の無形資産『多様性』」だと主張している。
「長州は、権力の操作が上手なのです。ですから官僚機構をつくり、動かしました。土佐は、官にはながくはおらず、野にくだって自由民権運動をひろげました。佐賀は、そのなかにあって、着実に物事をやっていく人材を新政府に提供します。この多様さは、明治初期国家が、江戸日本からひきついだ最大の財産だったといえるでしょう。」(『「明治」という国家』)
最後に、規制緩和によって引き出せる経済活力などは微力なものだろう、ということである。江戸の規制時代、灘は来たるべき時代に備えて着々と技術革新を進めていた。
規制緩和はその発展の契機になっただけである。規制の有無に関わらず、その革新を止めることはできなかった。
むしろ、人間の本当の活力は、江戸時代がもっていたような多様性にあると思える。システムという一元的な技術を手に入れた近代日本にとって、表面的な多様性ではなく、真の多様性をもつことこそが重要だ、ということを江戸時代の規制政策とその緩和政策が教えてくれているように思う。
規制によって守るべきものは、この、江戸から引き継がれてきた酒産業の無形の資産である「多様性を生かした活力」である。
[1995.10 「月刊酒文化」1995年10月号 (株)酒文化研究所]