これまでのマーケティングの主流を占める「説得的(Persuasive)」手法は、自社の製品サービスについて、マス宣伝などを通じ消費者個人の知覚や態度に変容を与え、自社に有利なように当該製品サービスの認知率や評価などの認知的変化を得ることに主眼があった。それに根拠を与えていたのは心理学的に基礎づけられた消費者個人の態度変容であった。しかし、現実には15秒という限られた時間のなかで可能なことは反復効果によるブランド記憶であり、有名タレントなどを起用したインパクトによるイメージ説得であった。こうした手法による消費者のブランド識別を基礎に市場での製品差別化を行い、「独占的競争」によって「超過利潤」を獲得することが、激しい価格競争を回避する方法であると考えられてきた。つまり、広告に代表される非価格的マーケティングが差別化の根拠であった。
一般的には、企業は、広告宣伝費をどのように決定するのだろうか。また、「デフレ不況」のなかで、企業は広告宣伝費をどのようにすることが合理的選択なのであろうか。企業がどのように行動するかを単純な経済分析によって試みてみる。
ある市場でひとつの製品を販売する独占企業を想定する。企業に与えられている需要関数にCES関数を想定することとする。
ただし、
ここで A は、企業の広告支出、Q を需要量、p を価格とする。これによって、需要量は、広告水準( A )に対して漸減的に単調増加する。さらに、需要の広告弾力性 η A 、需要の価格弾力性 η p を次のように定義する。
企業の製品一個当りの費用、すなわち平均費用を c とすると、自社の利潤関数は以下のようになる。
独占企業が利潤を最大化する選択変数はふたつある。広告支出と価格である。利潤を最大化するための価格に関する1階の条件は次式によって与えられる [1]。
これを需要の価格弾力性で整理すると以下のように整理できる。
さらに、需要の価格弾力性を価格( P M )で整理する。
(1.1)
また、利潤を最大化するための広告に関する1階の条件は次式によって与えられる [2]。
これを需要の広告弾力性で整理すると以下のように整理できる。
(1.2)
(1.1)と(1.2)から、以下の条件が導き出される。
(1.3)
(1.3)式が、産業組織論でよく知られている「ドーフマン=シュタイナー条件」[3]である。
この式から導き出される命題としての帰結は以下のとおりである。
命題 独占企業の利益最大化のための広告と価格の水準は、売上高広告宣伝比率が、価格弾力性に対する広告弾力性の(絶対値の)比と等しくなるように設定する必要がある。
この分析は、独占企業を前提としたものであるが、寡占的な競争の方がより現実的である。しかし、理論的には、独占と寡占の利潤を比較すると「独占利潤>寡占利潤」の結果になることから、独占的行動から得られる分析は現実の寡占状況のより単純かつ最大限の利潤条件とみなすことができるために有効である [4]。
この命題は、与えられた需要条件のもとで、企業は、需要の価格弾力性と需要の広告弾力性の比に対応して広告宣伝比率を調整することが企業の利潤最大化のための合理的行動であるという原則を示唆している。
現在、多くの企業で広告宣伝費率を絞り込んでいる。この原則に照らせば、企業は価格弾力性と広告弾力性の比が小さくなっているとみなしていると言える。実際の広告宣伝費の動きも同様の傾向が見られる(図表1)。その原因は、このモデルに従うと、需要の広告弾力性が小さくなっているか、価格弾力性が大きくなっているか、あるいは、両方か、である。需要の広告弾力性が小さくなって相対比が小さくなっているとみなされているのは、「広告が効かない」という経験に見合っている。需要の価格弾力性が大きくなっているのは、1) 他財との代替性が高まっている、2) 消費者の流動性選好が強まっている、ということが想定されているからである。「デフレ現象」の内実でもある。
しかし、我々の主要な関心は、広告宣伝費の低下を説明することではない。いかに、企業の収益をあげるかである。この分析から言えることは、「ドーフマン=シュタイナー条件」のもとで、現在の「デフレ市場下」の需要の価格弾力性の変化に対応するためには四つの戦略オプションしかない、ということである(図表2)。
第一は、需要の価格弾力性の変化に対応して価格戦略を採用することである。「ベルトラン型」 [5]生き残り戦略である。需要条件である市場全体に対して、コスト優位を価格競争に結びつけて「価格=限界費用」までの価格の切り下げを行うことでシェアを獲得し、「超過利潤」は得られないが業界で生き残ることはできる戦略である。半導体や液晶パネルなどの業界事例を想定すると分かりやすい。
第二は、需要の広告弾力性の変化に対応して差別化戦略を採用することである。需要条件である市場全体に対して、宣伝広告を含む非価格マーケティング施策によって、縮減された予算のなかで、需要の広告弾力性をあげ、収益性を回復させることである。
第三は、「価格差別化戦略」である。市場全体を価格弾力性によってセグメントし、価格差別化戦略を採用することである。つまり、消費者の異なる「留保価格」や「購入意向価格(Willingness To Pay)」に着目し、何らかの方法によって消費者をスクリーニングし、それぞれ異なる価格によって販売する方法である。「一物一価」ではなく、「一物多価」、あるいは「一物個価」によって対応する戦略である。消費者が製品サービスに喜んで支払おうとする価格は企業の提供するコストを上回る。この差を埋めることによって収益を拡大する方法である。この戦略は多くの可能性を持っているにもかかわらず日本企業での採用は遅れている。
第四は、「集中戦略」である。市場全体を広告弾力性によってセグメントし、より広告弾力性の高い層に集中して、宣伝広告を含む非価格マーケティング施策によって、収益性を回復させることである。「ニッチ」と呼ばれる戦略である。
どの戦略が有効かは、それぞれの需要条件と企業の経営資源によって決められるべきである。しかし、多くの日本企業が採用している戦略は、コスト優位による「ベルトラン型生き残り」であるように思われる。
この競争の帰結は、社会的にみれば企業にとっては超過利潤がなく消費者余剰が最大となる結果をもたらす。他方で、同質的な消費の世界をもたらすことになる。ここでは、差別化戦略についてより具体的に検討してみたい。価格差別化戦略及び集中戦略については、需要及び市場セグメントという実証的かつ創造的側面を持つため別稿とする。
[2003.05 J-marketing.net]
【附 注】
[1] ここで、価格に関する1階の条件とは、「利潤関数を価格で偏微分した計算結果がゼロに等しくなる」という条件である。そもそも、利潤が最大となっている価格とは、利潤関数の頂点を形成する価格に他ならない。ならば、当該利潤関数の頂点における傾きはフラット、つまりゼロになっているはずである。この"利潤関数の頂点における傾き"を数学的に表現したものが「利潤関数を価格で偏微分した計算結果」であり、利潤が最大となっている価格ではその値がゼロになっていなければならない、ということが、価格に関する1階の条件の含意である
[2] ここで、広告に関する1階の条件とは、「利潤関数を広告で偏微分した計算結果がゼロに等しくなる」という条件である。この数学的表現の含意は、前述の価格に関する1階条件と同様であるので、ここでは付言しない。
[3] ドーフマン=シュタイナー条件については、例えば小田切(2001)参照。同条件の一般化については、丸山・成生(1997)、動学化についてはS.Martin (1993)参照。
[4] 更にいえば、寡占的状況に置かれている各企業の財が完全に同質的ではなかったり、あるいは、広告を含めた非価格的競争手段によっていささかでも差別化され得るものであるならば、各企業は独占企業の場合と同様、独自の需要関数に直面することになる。その限りにおいて、独占企業を前提とした当該分析及び「ドーフマン=シュタイナー条件」は、寡占的状況下であっても十分に有効である。
[5] ベルトラン競争については、小田切(2001)参照。
【主要参考文献】
R.ギボンズ、福岡正夫・須田伸一訳(1995)「経済学のためのゲーム理論入門」創文社
小田切宏之(2001)「新しい産業組織論 理論・実証・政策」有斐閣
C.シャピロ・H.ヴァリアン、千本倖生監訳(1999)「ネットワーク経済の法則」IDGジャパン
西村和雄(1995)「ミクロ経済学入門 第2版」岩波書店
野口悠紀雄(1974)「情報の経済理論」東洋経済新報社
H.ヴァリアン、佐藤隆三監訳(2000)「入門ミクロ経済学 原著第5版」勁草書房
丸山雅祥(1988)「流通の経済分析 情報と取引」創文社
丸山雅祥・成生達彦(1997)「現代のミクロ経済学 情報とゲームの応用ミクロ」創文社
山岸俊男・清成透子・谷田林士(2002)『社会的交換と互恵性-なぜ人は1回限りの囚人のジレンマで協力するのか』佐伯胖・亀田達也編「進化ゲームとその展開」共立出版
藪下史郎(2002)「非対称情報の経済学」光文社新書
O.Shy(1995)"Industrial Organization : Theory and Applications", The MIT Press
S.Martin(1993)"Advanced Industrial Economics", Blackwell
J.Tirole(1988)"The Theory of Industrial Organization", The MIT Press