伊勢丹は、現在では三越伊勢丹ホールディングスとして、百貨店業界のトップとして存在しているが、伊勢丹の創業からの歴史を見ると決して常に順風満帆な道のりを歩んできたわけではない。後発の呉服屋としてハンデを背負い、戦後、街の発展と変わる顧客に悩まされ、90年代以降、百貨店業界が低迷を続ける中、伊勢丹は顧客とニーズを捉え直し、「欲しい商品を欲しいときに欲しい価格で欲しい量だけ品揃えする」というMDの力を磨くことで生き残ってきたのである。
1886年、伊勢屋丹治呉服店は、神田旅籠町に創業した。後発ながら、成長を遂げることができた要因は三つある。それは、花柳界と実業界の上流階級という「特定顧客への集中」、「仕入れ係の育成」、「御守殿模様」をはじめとする「顧客に合わせた品揃え」である。神田旅籠町を選んだのは、明治維新後、武士階級の大量流出の後、1880年代に入り再び東京に人口集中が目立ってきて、その中心地となったのが神田区、日本橋区であり、花柳界という呉服の大手市場を間近に控える場所だったからである。現在の強みとなっている仕入れ機能は、初代からの伝来を脈々と受け継いでいる。
1909年、女性たちの間で、服装において帯の注目が高まる中、小菅丹治邸で開かれた「帯の展覧会」で競合他社と差別化して帯を打ち出し、「帯の伊勢丹」の定評を一挙に高めた。また、京都風とは異なる、独自の模様を開発し、「模様の伊勢丹」の名も高めた。
しかし、呉服店業界を駆け上がる伊勢丹に経営の危機が訪れる。1916年より経営はニ代目丹治に変わり、24年に神田店を新装開店する。27年には新館を増築するも、売上は低迷する。その要因はふたつある。ひとつは、23年に起きた関東大震災後の神田周辺の立地条件や環境が一変したこと、ふたつめは、24年に日本百貨店協会が設立され洋服化が進む中、花柳界、実業界の既存顧客に依然大きな比重を置き、呉服・帯中心の商売で、百貨店化を実現できていなかったことである。
33年の新宿の移転から80年代までは、ヤング・メンズ・ミッシーの顧客を捉え、MDの力を磨き、「ファッションの伊勢丹」を確立した時期であった。
33年9月、鉄道・バスの相次ぐ開通でターミナルとして急速に発展していた新宿に移転する。35年には隣接するほてい屋を買収して増築した後、伊勢丹は急激な成長を遂げていく。この頃から、衣料品の売上高構成比は全国の百貨店平均を上回っていた。
太平洋戦争を経て、国内経済が回復へと向かい始めた中、女性の社会進出が進み、日本女性のファッションへの関心が急速に高まった。1948年6月に小菅利雄が常務取締役として入社し、若年層を対象にいち早くファッションをベースにした商品展開に積極的に取り組んでいった。50年3月には、洋裁学校生徒の手による「ニューレディメイド・デザイン・コンクール」を、51年3月には「トウキョウ ファッション1951」を開催した。
そして、「ファッションの伊勢丹」というポジション確立のきっかけが、51年の欧米視察による顧客分類・商品分類に基づくMDの導入である。全米小売業者協会が作成した「バイヤーズ・マニュアル」を基にMDをいち早く取り入れ、1955年に二代目丹治が掲げた「三越(本店)を抜き、日本一の百貨店へ」という目標達成に向け、MDを徹底的に実践した。
ベビーブームを背景に、ベビーショップを展開し、中学生くらいの女性向けの洋服売場がない中、アメリカで「ティーン」が注目されていたこともあり、ティーンエイジャーショップを展開する。これらは、「ヤングファッションの伊勢丹」の基礎を築き、用途別分類が新鮮な手法だった。この時人気となったタータンチェックのスカートから、のちの伊勢丹チェックの紙袋が誕生した。
1960年、ニ代目丹治の死去に伴い、三代目小菅丹治が社長に就任する。世界レベルの百貨店を目指し、61年10月に東証上場を果たす。売場づくりの強化、既製服化の推進、ヨーロッパファッションの強化など、次々と施策を打ち出し、「ファッションの伊勢丹」を確立した。64年には販売体制の確立を目的に「金バッジ制度」を導入し、同時にバイヤーとアシスタントの一層の充実を図った。
そして、「ピーコック革命」と言われる男性ファッションの個性化の時期に先立ち、1968年9月、日本初の男性専門のデパートがオープンを迎える。ビジネスマンが服飾に個性を出す時代、男性がおしゃれをする時代を、伊勢丹は予測した。
70年代に入り、他社の追随もあって、顧客ニーズの変化に対応するために「ライフスタイル別MD」の提案を試み、MDの強さに磨きをかけていく。
しかし、1975年頃に青山や原宿、六本木といったおしゃれな街が登場したことで、伊勢丹が主要顧客としてきた「ヤングの新宿離れ」が顕著となり、本店の再開発が緊急の課題となった。80年代の新しい百貨店を目指して、79年9月に第一期リモデルオープンを果たす。ここで最も重きを置かれたのが、「MDの革新による明確な差別化」であった。顧客の実年齢ではなく、ファッション意識で区分したマインドとファッションに対する好みや意識で区分したテイスト別のMDを導入し、「見るだけでも楽しめる売場づくり」としてMDプレゼンテーションを取り入れた。合わせて、新MDを支える組織と人事制度の再構築にも着手する。ディビジョン制による新組織や全員専門職制度を導入し、他社に追随を許さない、MDを実践するバイヤーの量と質の追求に向かった。50億円を投資して行われたリモデルにより、本店は衣料品部門で全国百貨店中第一位の座を奪回して、名実ともに「ファッションの伊勢丹」の復権を果たした。
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